鎌倉殿の13人・第27回ネタバレ・源頼家の近習とはどんな人

鎌倉殿の13人

鎌倉殿の13人は源頼朝の死去により次の鎌倉殿の頼家に政権が移っていきます。

第27回は「鎌倉殿と13人」です。これによってこのドラマのテーマの主役が揃うことになるのです。若き将軍頼家がこれにどのように対処したのでしょうか。

鎌倉殿の13人・13人の合議制はどのように誕生したか

建久10年(1199年)1月源頼朝の急死にともない、頼家は20日には左中将、26日には家督を相続することになります。

こうして、頼家は第二代の鎌倉殿になったのですが、18歳ということもあり、頼りないとも思われたのでしょう。

確かに、頼朝挙兵以来の苦労を共にしてきた御家人からすれば、いわゆる修羅場をくぐっていないのですから、何かと危うい感じがしたのでしょう。

そんな事情もあり、頼家が様々な訴訟を扱うことは停止し、13人の合議制としたことになります。

どうやら頼家も既に先例を覆すような裁断をしていたようで、いろいろなトラブルも起こしたようです。頼家もさすがに逆らえなかったことでしょう。

13人の構成は次の通りです。詳しくはこちらのサイトに記載しています。鎌倉殿の13人とは誰で源頼朝とはどんな関係の人?

鎌倉殿の13人の内訳は

北条氏2名

北条時政 保延4年(1138年)生まれ 頼朝の舅 伊豆・駿河・遠江守

北条義時 長寛元年(1163年)生まれ 時政の子、寝所警護衆

比企氏1名

比企能員 生年不明 信濃・上野守

有力御家人6名

和田義盛 久安3年(1147年)生まれ 侍所別当

梶原景時 保延6年(1140年)生まれ 侍所所司

足立遠元 生年不明 公文所寄人

三浦義澄 大治2年(1127年)生まれ 相模守

八田知家 康治元年(1142年)生まれ 常陸守

安達盛長 保延元年(1135年)生まれ 三河守

貴族4名

大江広元 久安4年(1148年)生まれ 公文所別当

中原信能 康治2年(1143年)生まれ 公文所寄人、大江広元の兄

二階堂行政 生年不明 公文所寄人 頼朝の母の従兄弟

三善康信 保延6年(1140年)生まれ 頼朝の乳母の甥

ざっとこんな構成です。頼家が寿永元年(1182年)生まれですから、一番若い北条義時ですら20歳近い開きがあります。

ほとんどがそれよりも一世代前ですから、頼家にしてみればお祖父さんに囲まれているような状況だったのでしょう。

鎌倉殿の13人・源頼家の近習とはどんな人

このような宿老による締め付けに対抗して、頼家は自分の親衛隊を作ることになるのです。なるべく年齢が近い話し易い者を選んで相談したくなることでしょう。

そして、これら以外の目通りを許さないと宣言することで幕府内に混乱を引き起こすことになるのです。近習としては次のような人たちです。

小笠原長径(ながつね)

父の小笠原長清は甲斐玄源氏の一族で、頼朝挙兵後、富士川の戦いから頼朝に仕えるようになった御家人です。弓馬術礼法の小笠原家の祖とされています。

長経は治承3年(1179年)の生まれですから、歳も近く、武術にも優れていたと言われています。この近習の筆頭格とされています。

比企宗員(むねかず)

宿老の比企能員の三男となりますが、実際は次男でもあり、嫡男であったとも言われています。

比企時員

同じく比企能員の四男となります。頼家の蹴鞠の会には毎回出席していることからかなり上手だったようです。

中野能成(よしなり)

父が信濃国中野郷の武将であることから、中野を名のるようになります。最初は木曽義仲についていたようですが、後に頼朝に仕えるようになります。

頼朝の隋兵として認められていますから、それなりに活躍したのかもしれません。一説ではこの人が北条とつながっていたとも言われています。

ドラマの中では北条時房が近習に入るような設定になっていますが。

和田朝盛

有名な侍所別当和田義盛の嫡男常盛の嫡男として生まれています。父親同様弓の名手だったようで、その後、いろいろな場面で去就が注目される存在になります。

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鎌倉殿の13人・源頼家近習の不祥事

このような側近政治はうまくいけば機能するのですが、結果としては残念な記録しか残っていないようです。

頼家就任後半年ほどして安達景盛の愛妾を奪うことにこの側近が動いたという記録が残っています。安達景盛は安達盛長の嫡子ですが、どうやら頼家とはうまくいかなかったようです。

また、頼家も父の頼朝に似て女性に目がなかったかも知れません。景盛が不在の間に頼家の命で愛妾を奪ってしまい、さらに景盛が殺されかけたという事件が起こります。

さすがに北条政子の仲介で事なきを得たようですが、こんな話が残っているようでは先が思いやられます。

鎌倉殿の13人・源頼家の近習とはどんな人のまとめ

鎌倉殿の13人に対する頼家の対抗馬として頼家が集めた近習について解説してみました。近習の中には、その後の勢力争いの中で、重要な役割を演じたり、中には生き延びていく人もいます。そこらあたりは、今後のドラマの展開に譲ることにします。

若干18歳で鎌倉殿となったとはいえ、このようにお父さん、お祖父さん世代に囲まれていては、息が詰まると考えるのは自然でしょう。

そんなことから、近習、今でいえば親衛隊を集める気持ちも理解できますね。トップになったものが、居並ぶ実力者に囲まれて、側近を求めることはいつの世も見られることです。

しかしながら、それも程度問題ですし、側近政治が引き起こす問題が世のためになっていれば良いのですが、だいたいそうでないことが多いようです。

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