徳川家康には正室・継室の2人と多くの側室がおり、一般に実子は11男5女の16人とされています。妻と子供の関係をたどると、徳川家がどのように勢力を広げ、江戸幕府へつながっていったのかが見えてきます。
家康の妻と子供について調べると、「妻は何人?」「子供は何人?」「誰が誰の母親?」「側室から御三家につながったの?」と、次々に疑問が出てきますよね。
そこでこの記事では、正室の築山殿と朝日姫から、家康を支えた側室、11男5女の子供たちまでを、母子関係が分かるように整理していきます。
- 徳川家康の妻と子供は何人?11男5女と正室・側室の全体像
- 徳川家康の妻一覧|正室の築山殿と継室の朝日姫
- 徳川家康の側室一覧|子供を産んだ女性と家系図の関係
- 西郡局(にしのこおりのつぼね・生年不詳~1606)
- 次女・督姫(1565~1615)
- 於古茶・於万の方・小督局(長勝院)(1548~1620)
- 次男・結城秀康(1574~1607)
- 永見貞愛(ながみさだちか)(1574~1605)
- 西郷局・於愛(1552~1589)
- 三男・徳川秀忠(1579~1632)
- 四男・松平忠吉(1580~1607)
- 於竹・良雲院(生年不詳~1637)
- 三女・振姫・正清院(1580~1617)
- 於都摩・秋山夫人・下山殿・妙真院(1564~1591)
- 五男・武田信吉(1583~1603)
- 於茶阿・朝覚院(1550~1621)
- 六男・松平忠輝(1592~1683)
- 七男・松平松千代(1594~1599)
- 於亀・相応院(1573~1642)
- 八男・平岩仙千代(1595~1600)
- 九男・徳川義直(1601~1650)
- 於久・普照院(生年不詳~1617)
- 四女・松姫(1595頃~1598)
- 於万・養珠院(1577~1653頃)
- 十男・徳川頼宣(1602~1671)
- 十一男・徳川頼房(1603~1661)
- 於梶・英勝院(1578~1642)
- 五女・市姫(1607~1610頃)
- その他の徳川家康の側室
- 徳川家康の子供と家系図|将軍家・御三家は誰につながった?
- 家康の妻と子供から見えるもの|なぜ側室と多くの子供が必要だったのか
- よくある質問
徳川家康の妻と子供は何人?11男5女と正室・側室の全体像
徳川家康の子供は、系譜上は11男5女、合計16人と整理されるのが一般的です。 一方、妻については正室・継室が2人で、側室の人数は史料や数え方によって違いがあります。
家康の正妻として知られるのは、最初の正室である築山殿(瀬名)と、のちに豊臣秀吉との政治的な関係の中で迎えた朝日姫です。
側室については「20人以上」と紹介されることもありますが、資料によって名前や立場の扱いが異なり、確実に名前が知られている女性だけでも十数人にのぼります。
まず、家康の子供と生母の関係を大きく整理すると、次のようになります。
子供 生母 主な位置づけ
長男・信康 築山殿 岡崎城主
長女・亀姫 築山殿 奥平信昌室
次女・督姫 西郡局 北条氏直室、のち池田輝政室
次男・結城秀康 於万の方(長勝院) 越前へ
三男・徳川秀忠 西郷局 江戸幕府2代将軍
四男・松平忠吉 西郷局 尾張などを領す
三女・振姫 於竹 蒲生秀行室、のち浅野長晟室
五男・武田信吉 於都摩 武田氏の名跡を継ぐ
六男・松平忠輝 於茶阿 越後高田藩主
七男・松平松千代 於茶阿 幼くして死去
八男・仙千代 於亀 平岩親吉の養嗣子
四女・松姫 於久 幼くして死去
九男・徳川義直 於亀 尾張徳川家の祖
十男・徳川頼宣 於万の方(養珠院) 紀伊徳川家の祖
十一男・徳川頼房 於万の方(養珠院) 水戸徳川家の祖
五女・市姫 於梶 幼くして死去
こうして眺めると、家康の子供たちは単なる「大家族」ではありません。
秀忠が将軍家を継ぎ、義直・頼宣・頼房がのちの尾張・紀伊・水戸徳川家につながりました。家康の家族構成そのものが、江戸時代の徳川支配を支える骨格になっていったとも考えられるのです。
また、娘たちの婚姻も重要でした。
北条氏、奥平氏、池田氏、蒲生氏、浅野氏など、有力大名家との結びつきに家康の娘たちが大きな役割を果たしています。
私には、家康の家系図を見るときは「何人いたか」を暗記するよりも、誰がどの家と結びつき、徳川家の安定につながったかを見るほうが、ずっと戦国史がおもしろく感じられます。
徳川家康の妻一覧|正室の築山殿と継室の朝日姫
徳川家康の正式な妻としてまず挙げられるのが、築山殿と朝日姫です。
二人の結婚には、現代の夫婦関係とはかなり違う、戦国時代ならではの政治事情が色濃く表れています。
築山殿・瀬名の悲劇的な運命(生年不詳~1579年)
築山殿は瀬名姫とも呼ばれ、今川氏の有力家臣であった関口親永(氏純)の娘とされます。
今川義元と近い血縁関係にある家柄に生まれた女性で、徳川家康がまだ今川氏の影響下にあった時期に正室となりました。
なお、「今川義元の娘」と簡単に紹介されることがありますが、一般には義元本人の実娘ではなく、今川氏の一門・近親にあたる家の女性として理解するほうが適切です。築山殿の本名については「瀬名」とする資料も確認されています。
家康との間には、長男信康と長女亀姫が生まれました。
ところが、1560年の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れて亡くなり、その後、家康が織田信長と結ぶようになると、築山殿を取り巻く環境は大きく変わります。
かつて深く結びついていた今川家が衰退し、夫の家康はその敵だった織田家と同盟を結んでいくわけですから、その胸中は穏やかではなかったでしょう。
1579年、築山殿は命を落とし、息子の信康も自害しました。
従来は「築山殿と信康が武田氏に内通し、織田信長が処罰を要求した」という説明が広く知られてきました。ただし近年は、事件の経緯や信長と家康の関係についてさまざまな研究・解釈があり、単純に「信長の命令だけで二人が死んだ」と断定するのは慎重であるべきでしょう。
戦国時代の家族は、現代の家族以上に政治と切り離せません。
家康の最初の妻と嫡男がそろって命を落とした1579年は、徳川家の家族史を考えるうえでも大きな転換点だったと私は感じます。
長男・徳川信康(1559~1579)
家康の長男で、母は築山殿です。
織田信長の娘である徳姫を妻に迎え、元服後は岡崎城主となりました。家康の嫡男として将来を期待された人物でした。
ところが1579年、母の築山殿が命を落としたのと同じ年に、信康も二俣城で自害しています。国立公文書館の資料でも、信康は天正7年(1579)に家康の命により自害した人物として紹介されています。
信康には徳姫との間に娘がおり、その子孫を通じても徳川家と有力武家との関係は続いていきました。
もし信康が生きていれば、後に2代将軍となった秀忠の立場も大きく違っていたはずです。
歴史は結果だけを見ると一本道に見えますが、徳川家康の家系図を見ていると、いくつもの分岐点の上に江戸幕府が成立したことがよく分かります。
長女・亀姫(1560~1625)
家康の長女で、母は築山殿です。
奥平信昌に嫁ぎました。
奥平氏は武田氏と徳川氏の間で揺れ動いた家でしたが、徳川方についたのち家康との関係を深めます。
奥平信昌はのちに美濃加納10万石へ移り、亀姫は加納御前、加納の方などと呼ばれるようになりました。岡崎市観光協会の解説でも、亀姫は1560年生まれで、1576年に奥平信昌と結婚したと紹介されています。
娘の婚姻もまた、家康にとって有力武将との関係を固める大切な手段だったのでしょう。
朝日姫が家康の継室となった理由(1543~1590)
朝日姫は豊臣秀吉の異父妹とされる女性です。
最初から大名家の姫として育ったわけではなく、秀吉の出世とともに人生が大きく変化していきました。
やがて、豊臣秀吉が徳川家康を自分の政権下に組み込もうとする過程で、朝日姫は家康の継室として嫁ぐことになります。
家康は築山殿の死後、正式な正室を置いていませんでした。
そこで秀吉は、自らの妹を家康へ嫁がせることで、両家の結びつきを形として示そうとしました。
朝日姫は40代で家康のもとへ嫁ぎ、駿府に住んだことから駿河御前とも呼ばれています。
家康と朝日姫の間に子供はいません。
この婚姻は恋愛というよりも、豊臣政権と徳川家の政治関係を象徴する意味合いが強かったと考えられます。
戦国時代の「妻」という言葉を現代と同じ感覚だけで考えると分かりにくいのですが、婚姻そのものが外交でもあったのですね。
徳川家康の側室一覧|子供を産んだ女性と家系図の関係
徳川家康には数多くの側室がおり、その女性たちから秀忠、義直、頼宣、頼房など徳川家の重要人物が生まれました。
家康の側室を理解するとき、とくに大切なのは「人数」だけではありません。
家康の勢力が三河、遠江、駿河、甲斐、関東へと拡大するにつれ、側室の出自も多様になっています。
つまり家康の女性関係には、個人的な事情だけでなく、地域社会や旧勢力とのつながりという側面も見えてきます。
西郡局(にしのこおりのつぼね・生年不詳~1606)
西郡局は三河国の蒲郡周辺に勢力を持った鵜殿氏に関係する女性で、鵜殿長持の娘と伝えられます。
家康との間に次女・督姫をもうけました。
次女・督姫(1565~1615)
督姫は1583年、徳川氏と北条氏が和睦した際、北条氏直のもとへ嫁ぎました。
これは家康の娘の婚姻が、文字どおり外交の一部だったことが分かる例です。
北条氏直は小田原征伐後に高野山へ送られ、1591年に亡くなります。
その後、督姫は1594年、池田輝政と再婚しました。
元記事では氏直との間に2女を産んだと紹介していましたが、岡崎市観光協会の解説では氏直との間に子はいなかったとされています。池田輝政との再婚後には子供をもうけました。
ここは家系図を調べると混乱しやすいところなので、北条氏直との子と池田輝政との子を分けて考えると分かりやすいでしょう。
於古茶・於万の方・小督局(長勝院)(1548~1620)
三河国池鯉鮒周辺と関係する女性とされ、築山殿に仕えたのち、家康の側室になったと伝えられています。
家康との間に次男・結城秀康を産みました。
「於万の方」という名前は別の側室にも使われるため、調べるときは結城秀康の母=長勝院、頼宣・頼房の母=養珠院と区別すると迷いにくくなります。
次男・結城秀康(1574~1607)
小牧・長久手の戦いの後、豊臣秀吉との関係改善の中で秀吉の養子となりました。
その後、下総結城氏の養子となり、結城姓を名乗ります。
信康亡き後、年齢順だけで考えれば秀康が家康の後継者となっても不思議ではありませんでした。
しかし実際には徳川家の後継者とはならず、三男秀忠が後継者となります。
関ヶ原の戦いでは、秀康は東国に残って上杉氏への備えを担い、戦後は越前へ大きく加増されました。岡崎市観光協会では、越前一国67万石を領したと紹介されています。
「長男が亡くなったら次男が継ぐ」という単純な順番ではなかったところに、戦国大名家の跡継ぎ問題のおもしろさがあります。
永見貞愛(ながみさだちか)(1574~1605)
永見貞愛は、結城秀康と双子だったという伝承があります。
しかし家康の正式な11男の中には数えられておらず、家康の実子であるかどうかについては慎重に考える必要があります。
元記事では「双子は嫌われたため認知されなかった」と紹介していましたが、この点も伝承的な要素を含む話として見ておくのがよいでしょう。
永見貞愛は知立神社の神主になったと伝えられています。
ここで大切なのは、家康の子供を数えるときに一般的な答えはあくまで11男5女の16人であり、永見貞愛などの伝承上の子供は別枠で考えることです。
西郷局・於愛(1552~1589)
西郷局は三河の西郷氏につながる女性です。
最初の夫に先立たれ、さらに西郷義勝の妻となった後、その夫も1571年に戦死したとされます。
その後、家康の側室となりました。
美しく穏やかな人物だったという伝承があり、強い近眼だったとも伝えられています。
西郷局は、家康の家系図を考えるうえでは非常に重要な女性です。
なぜなら、江戸幕府2代将軍となる徳川秀忠の母だからです。
三男・徳川秀忠(1579~1632)
徳川秀忠は、家康の三男として生まれました。
長男信康がすでに亡くなり、次男秀康が豊臣家や結城家との関係に入ったこともあり、最終的に徳川宗家の後継者となります。
1605年には家康から征夷大将軍職を譲られ、江戸幕府第2代将軍となりました。
家康の数多い子供の中でも、徳川将軍家そのものにつながっていく人物です。
「徳川家康の子供は誰が一番重要?」と聞かれれば、一人だけを選ぶのは難しいものの、幕府の継承という意味では秀忠は外せません。
四男・松平忠吉(1580~1607)
秀忠と同じ西郷局を母とする弟です。
松平家忠の養子となり、三河東条、駿河沼津、武蔵忍などを経て領地を広げました。
関ヶ原の戦いでも活躍し、戦後は尾張を中心とする領地を与えられました。
しかし1607年に若くして亡くなります。
このため尾張の徳川家は、のちに異母弟である九男・徳川義直へつながっていきます。
於竹・良雲院(生年不詳~1637)
武田家臣の市川昌永の娘とされる女性です。
家康との間に三女・振姫をもうけたとされています。
三女・振姫・正清院(1580~1617)
振姫は豊臣秀吉の意向もあり、蒲生秀行と結婚しました。
夫の蒲生秀行との間に子供をもうけ、関ヶ原の戦いの後、蒲生氏は会津へ戻ります。
秀行が若くして亡くなった後、振姫は家康の命により浅野長晟と再婚しました。
浅野長晟との間にも子供をもうけた後、亡くなっています。
家康の娘たちは、徳川家の勢力圏だけではなく、豊臣政権下の有力大名や外様大名との関係づくりでも重要な存在でした。
於都摩・秋山夫人・下山殿・妙真院(1564~1591)
於都摩は武田氏の家臣秋山虎康の娘で、穴山氏とのつながりを持つ女性とされています。
武田氏滅亡後、家康との関係を持つようになり、五男・武田信吉を産みました。
五男・武田信吉(1583~1603)
信吉は武田氏の名跡を継ぎました。
家康の関東移封後は下総方面の領地を与えられ、のちに水戸へ移ります。
関ヶ原の戦い後は常陸水戸25万石を与えられましたが、病弱で若くして死去しました。
水戸には後に異母弟の頼房が入り、水戸徳川家へつながります。
「武田氏を滅ぼした側の徳川家康の息子が、武田氏の名を継ぐ」というところも、戦国時代のおもしろいところですね。
敵対勢力を完全に消すだけではなく、その名跡を取り込むことも統治の方法だったのでしょう。
於茶阿・朝覚院(1550~1621)
於茶阿は「久」とも伝えられる女性です。
遠江の鋳物師の妻だったという説があり、夫を失った後、家康へ直訴したことをきっかけに家康と出会ったという有名な逸話があります。
聡明な女性で、家康の奥向きでも力を持ったと伝えられます。
六男・松平忠輝(1592~1683)
忠輝は家康の六男です。
武蔵深谷、下総佐倉、信濃川中島、越後高田など、領地を拡大していきました。
一時は非常に大きな領国を与えられた人物ですが、大坂冬の陣・夏の陣前後に父家康との関係が悪化します。
家康の死後、兄秀忠の政権下で改易され、伊勢、飛騨を経て信濃諏訪へ預けられました。
その後、長い年月を生き、1683年に亡くなっています。
家康の息子という最高クラスの血筋を持ちながら、幕府の中枢から遠ざけられた人物であり、徳川家の家族史の厳しさを感じさせます。
七男・松平松千代(1594~1599)
於茶阿を母とする忠輝の弟です。
長沢松平氏を継ぐことになりましたが、幼くして亡くなりました。
そのため、その立場を忠輝が引き継いでいきます。
於亀・相応院(1573~1642)
於亀は京都の石清水八幡宮と関係する正法寺志水氏の出身とされます。
一度結婚を経験した後、家康の側室になったと伝えられています。
家康との間に仙千代と徳川義直を産みました。
八男・平岩仙千代(1595~1600)
家康の重臣として知られる平岩親吉には実子がいなかったため、仙千代はその養嗣子となりました。
しかし幼くして亡くなりました。
九男・徳川義直(1601~1650)
義直は家康の九男です。
幼くして甲斐の領主となった後、兄の松平忠吉が亡くなると、尾張の領国を受け継ぐことになります。
そして後世、尾張徳川家の祖として知られる存在になります。
義直、頼宣、頼房の三人は、のちに「徳川御三家」と呼ばれる家々の祖となりました。
家康が晩年にもうけた息子たちが、将軍家を支える有力な分家につながったわけです。
於久・普照院(生年不詳~1617)
於久は北条氏の旧臣である間宮氏につながる女性とされています。
家康との間に四女・松姫を産みました。
四女・松姫(1595頃~1598)
松姫は幼くして亡くなったと伝えられています。
家康の子供には成人して大名家や有力家へつながった人物がいる一方、幼少で亡くなった子供も少なくありません。
戦国末期から江戸初期は、身分の高い家であっても子供が無事に成人することは決して当たり前ではありませんでした。
於万・養珠院(1577~1653頃)
於万の方は、三浦氏につながる正木氏の出身とされ、蔭山氏の養女となった女性です。
家康の側室となり、十男・頼宣と十一男・頼房を産みました。
先ほど登場した結城秀康の母も「於万」と呼ばれるため、家康の妻一覧を見ると混同しやすい人物です。
こちらの於万の方は、紀伊徳川家と水戸徳川家につながる母・養珠院と覚えると分かりやすいでしょう。
十男・徳川頼宣(1602~1671)
頼宣は幼くして領地を与えられ、のちに駿府へ移り、1619年には紀伊和歌山へ移りました。
ここから紀伊徳川家が始まります。
後の8代将軍徳川吉宗は、この紀伊徳川家から将軍家へ入った人物です。
つまり、家康の十男頼宣の系統は、後世になって再び徳川将軍家そのものへつながったことになります。
家康が残した分家政策の意味が、100年以上たってから大きく現れた例ともいえるでしょう。
十一男・徳川頼房(1603~1661)
頼房は家康の十一男です。
幼くして常陸下妻に領地を与えられ、のちに水戸へ移されました。
これが水戸徳川家の始まりです。
水戸藩主は江戸に滞在することが多く、幕府政治との距離が近い家として発展していきました。
後世の徳川光圀や、幕末の徳川斉昭もこの水戸徳川家の人物です。
家康の子供を調べていると、戦国時代だけで終わらず、江戸時代の歴史全体につながっていくのがおもしろいところですね。
於梶・英勝院(1578~1642)
於梶は「お勝」とも呼ばれ、太田氏につながる女性とされています。
家康の関東入国後に側室となったとされ、聡明な女性として知られています。
家康との間には五女・市姫が生まれました。
また市姫が早世した後は、頼房の養育にも関わったとされています。
五女・市姫(1607~1610頃)
市姫は家康の五女で、伊達政宗の嫡男・伊達忠宗との婚約が進められていました。
しかし幼くして亡くなったため、結婚には至りませんでした。
伊達家との婚姻が予定されていたという事実からも、家康が娘の婚姻を有力大名との関係構築に活用しようとしていたことが分かります。
その他の徳川家康の側室
家康には、ここまで紹介した子供の母となった女性以外にも、複数の側室の名前が伝わっています。
元記事でも紹介していた女性を含め、代表的な名前を挙げると次の通りです。
- 於富(山田氏・信寿院)
- 於夏(清雲院)・長谷川藤直の娘
- 於六(養儼院)・黒田氏につながる女性
- 於仙(泰栄院)・宮崎泰景の娘とされる女性
- 於梅(蓮華院)・青木一矩の娘
- 阿茶局(雲光院)・飯田氏につながる女性
- 於牟須(正栄院)・三井吉正の娘とされる女性
- 於松(法光院)
- 三条氏
側室の一覧は資料によって名前、表記、人数が異なることがあります。
そのため「徳川家康の妻は全部で何人」と一つの数字に固定するより、正室・継室は築山殿と朝日姫、側室は十数人以上が知られていると理解しておくほうが安全でしょう。代表的な側室として、西郡局、長勝院、西郷局、下山殿、朝覚院、相応院、養珠院、英勝院、阿茶局などが挙げられています。
徳川家康の子供と家系図|将軍家・御三家は誰につながった?
徳川家康の11男5女のうち、江戸幕府の家系を理解するうえで特に重要なのは、秀忠・義直・頼宣・頼房です。
三男秀忠が将軍家を継ぎ、九男義直が尾張徳川家、十男頼宣が紀伊徳川家、十一男頼房が水戸徳川家へつながりました。
文字だけで家系図を簡単に表すと、次のようになります。
- 徳川家康三男・徳川秀忠 → 徳川将軍家九男・徳川義直 → 尾張徳川家十男・徳川頼宣 → 紀伊徳川家十一男・徳川頼房 → 水戸徳川家
この形が、徳川家康の家系図を理解するうえで最初に押さえておきたい骨格です。
一方で、次男秀康は越前、四男忠吉は尾張、五男信吉は水戸、六男忠輝は越後など、有力な息子たちには各地の重要拠点が与えられました。
つまり家康は、単純に「跡継ぎ一人だけを大切にした」のではありません。
複数の息子を各地へ配置することで、一族全体で支配を支える体制を築こうとした様子がうかがえます。
もちろん、すべてが最初から計画通りだったとは限りません。
信康の死、秀康の養子入り、忠吉や信吉の早世、忠輝の改易など、予想外の出来事も次々に起こっています。
それでも最終的に、秀忠の将軍家を中心に尾張・紀伊・水戸の徳川家が周囲を支える構図が生まれました。
個人的には、このあたりに家康らしさを感じます。
一度決めた完璧な家系図をそのまま実現したというより、家族の死や政治情勢の変化に合わせて、その都度使える選択肢を残していった結果、強い徳川一門が形成されたと見るほうが自然ではないでしょうか。
そして娘たちも忘れてはいけません。
亀姫は奥平氏、督姫は北条氏と池田氏、振姫は蒲生氏と浅野氏に嫁ぎ、市姫は伊達氏との婚姻が予定されました。
息子たちが「領地を押さえる柱」だったとするなら、娘たちは有力家との間を結ぶ「橋」のような役割を果たしていたとも考えられます。
徳川家康の妻と子供を家系図として見ると、そこには戦国大名の家族というより、のちの全国政権を支える大きなネットワークが浮かび上がってきます。
家康の妻と子供から見えるもの|なぜ側室と多くの子供が必要だったのか
家康に多くの妻や子供がいた背景を、単に「女性好きだったから」と片づけてしまうと、戦国時代の大名家の事情を見落としてしまいます。
当時は幼少期に亡くなる子供も多く、戦や病気によって跡継ぎを失う可能性も現在とは比べものにならないほど高い時代でした。
実際、家康自身も長男信康を1579年に失っています。
五男信吉、四男忠吉も家康より先に亡くなりましたし、松千代、仙千代、松姫、市姫など幼くして亡くなった子供もいました。
多くの子供を持つことは、大名家を存続させるための備えという意味を持っていたのでしょう。
もう一つ重要なのが、婚姻と養子が政治そのものだったことです。
次男秀康は豊臣秀吉の養子となり、その後結城氏へ入ります。
五男信吉は武田氏の名跡を継ぎました。
娘の督姫は北条氏直、のちに池田輝政へ嫁いでいます。
こうした関係を見ると、「徳川家康の妻と子供」というテーマは、家庭内の人物紹介だけでは終わりません。
家康が敵対勢力や有力大名をどのように自分の政治ネットワークへ取り込んでいったのかを見る手がかりになるのです。
また、家康の側室の出身地や実家にも注目すると興味深いものがあります。
三河、武田氏関係者、北条氏旧臣、関東の旧勢力など、家康の勢力拡大とともに女性たちの背景も広がっていきます。
ただし「側室はすべて政治目的で選ばれた」とまで断定するのは行き過ぎでしょう。
男女の出会いや個人的な信頼、奥向きでの役割など、史料だけでは分からない部分もあります。
それでも結果として、家康の妻や側室、その子供たちが徳川政権を支える大きな人間関係を形づくったことは確かです。
私は家康の家系図を眺めていると、一本の太い木というよりも、何本もの枝を広げて倒れにくくした大樹を思い浮かべます。
長男信康という大切な枝を早くに失っても、秀忠が残り、義直、頼宣、頼房らの家が育ちました。
そして紀伊徳川家からは、ずっと後になって徳川吉宗が将軍になります。
家康自身がそこまで先を予想していたわけではないでしょう。
けれども複数の家を残したことで、徳川家には将来の危機に対応できる余地が生まれました。
家康の妻と子供の多さは、結果的に徳川家が長く続くための「選択肢の多さ」につながった。
これが、家康の家族を人数だけでなく家系全体から見たときに浮かび上がる、重要なポイントではないでしょうか。
徳川家康には築山殿、朝日姫という正式な妻のほか、多くの側室がいました。
そして一般に家康の実子として数えられるのは11男5女の16人です。
信康の悲劇、秀康の養子入り、秀忠の将軍就任、さらに義直・頼宣・頼房から御三家へと続く流れを知ると、家康の家族史がそのまま江戸幕府の基礎になっていったことが分かります。
最初は名前の多さに少し目が回りそうですが、「秀忠=将軍家」「義直=尾張」「頼宣=紀伊」「頼房=水戸」と骨格を押さえてから一人ずつ見ていくと、ぐっと分かりやすくなります。
よくある質問
徳川家康の子供は何人ですか?
一般には11男5女、合計16人とされています。
長男信康から十一男頼房までの11人の男子と、亀姫から市姫までの5人の女子です。国立国会図書館のレファレンス事例でも、『家康の族葉』を根拠として「十一男五女の父」と紹介されています。
永見貞愛など家康の実子だったという伝承を持つ人物もいますが、通常の「家康の子供の人数」には含めません。
徳川家康の妻は何人いたのですか?
正室・継室として知られるのは、築山殿と朝日姫の2人です。
このほか、西郡局、西郷局、長勝院、下山殿、朝覚院、相応院、養珠院、英勝院、阿茶局など多くの側室がいました。
側室の総数は資料や数え方によって異なるため、「必ず何人」と断定するより、十数人以上の側室が知られていると理解するのが分かりやすいでしょう。
徳川家康の子供で御三家の祖になったのは誰ですか?
尾張徳川家の祖が九男・徳川義直、紀伊徳川家の祖が十男・徳川頼宣、水戸徳川家の祖が十一男・徳川頼房です。
一方、江戸幕府の将軍家は三男・徳川秀忠が継ぎました。
この4人の位置関係を覚えておくと、徳川家康の家系図はかなり理解しやすくなります。

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