徳川家康の兄弟を紹介しますー父松平広忠、母於大の方の息子と娘

どうする家康

徳川家康の息子、娘はたくさんいることが知られていますよね。しかし、兄弟は?というといたのかどうなのか分からないでしょう。実際はいたのです。その兄弟たちはどのような人生を送ったか解説します。

徳川家康の父松平広忠の三男一女

松平広忠には大給松平氏の松平乗正の娘でお久の方という側室がいました。徳川家康の生母となる於大の方が輿入れすると三河国桑谷村へ移り住んだと言われています。

その於大の方も今川方の勢力が強くなると離縁させられることになるのです。その後の継室とした広忠に嫁いだのが真喜姫です。

松平忠政(1541~1599)

お久の方から生まれたのが松平忠政になります。桶狭間の戦い以降家康に従い、三河国額田郡に領地を賜い、従五位下右京大夫に叙されています。

樵暗恵最(しょうあんえさい)/樵臆恵最(しょうおくえさい)(1542~没年不詳)

同じくお久の方から生まれた忠政の弟と言われています。1542年12月26日家康と同日に生まれていることから家康とは双子ではないかとも言われています。父親の広忠の名前を寺号とした瑞雲山広忠寺(こうちゅうじ)を桑谷村に建立し、その住職となったと言われています。

徳川家康

説明は不要ですね。松平広忠からすると三男になります。正室の於大の方から生まれていますので嫡子となりますが。

市場姫(生年不詳~1593)

松平広忠は今川方の勢力拡大に伴い、織田方に近い於大の方と離縁することになります。その後田原城主の戸田康光の娘・真喜姫を継室に迎えることになります。この真喜姫との間にできたのが市場姫です。

市場姫は八ツ面城主・荒川義広へ嫁ぎ、2男1女をもうけますが、三河一向一揆を巡って家康は義広と対立し、義広を追い払うことになります。市場姫は咎めなく後に筒井定次に嫁いだと言われています。

徳川家康の母於大の方の三男三女

松平広忠から離縁された於大の方は天文16年(1547年)には信元の意向で知多郡阿古居城(坂部城、現・阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁しました。そして三男三女をもうけています。父親は違いますがこの人たちも兄弟ですよね。

松平康元(1552~1603)

1560年に家康と会見して松平姓を与えられ、名前も松平康元としております。以後家康に従い、1562年には上之郷城主、1590年には下総国関宿藩2万石、関ヶ原の戦いには家康の代理として江戸城の留守居役を務めるなど家康を支えています。

松平康俊(1552~1586)

1560年に兄と同時期に家康に会見しています。今川氏真への人質として送り出されますが、後に武田信玄の下に連れ出されることになします。

その後、信玄の下から脱出に成功しますが、この際に凍傷のため両足の指を失ったとされています。1583年には駿河の久能城を与えられますが、3年後に亡くなってしまいます。

多劫姫(1553~1618)

最初松平忠正に嫁ぎますが、夫がなくなったため、その弟の忠吉に嫁ぎます。また忠吉も1583年に亡くなってしまいます。1584年に信濃国高頭城主保科正直に嫁ぎ、二男四女をもうけたと言われています。

松平定勝(1560~1624)

兄の会見時には生まれたばかりでしたので間に合いませんでしたが、間もなく松平姓をもらって家康に従うことになります。長篠の戦い、天目山の戦い、小牧・長久手の戦いに従軍しています。

1590年には下総国小南3000石、1600年に伊勢国長島城主、1年後には遠江国掛川藩主、1617年には伊勢桑名藩11万石の城主となっています。変わったところでは、アナウンサーの松平定知はこの末裔になります。

その他にも松平康長の夫人となった松姫、松平家清の夫人となった天桂院がいます。

徳川家康の兄弟を紹介しますのまとめ

徳川家康の兄弟はほとんどだれも知られていないでしょうが、なんと9人もいたのです。しかも感心するのは、すべて家康を支える側に回っていることです。

9人もいれば中には家康と対立する人が現れても不思議ではないのですが。こんなところが徳川家康の強さの原点ですね。

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