「光る君へ」では父藤原為時が淡路守に内定したときに、主人公のまひろは下国の淡路国ではなくて宋人が上陸して問題となっている上国の越前守がふさわしいと考え、文章を上申する場面がありました。
藤原為時は平安時代の重要な人物であり、紫式部の父として知られています。彼の漢詩の才能と越前守への任命の経緯は、多くの歴史資料や説話に記されていますが、近年の研究で新たな視点が加わりました。
本記事では、藤原為時の生涯、特に越前守への任命の真相について詳しく解説します。また、彼の業績が紫式部にどのような影響を与えたのかについても考察します。
藤原為時の出生と家系
藤原為時は平安時代に生まれ、正確な生年は不明ですが、一説には949年(天暦3年)とされています。
彼の父は藤原雅正、母は藤原定方で、父方の祖父は小倉百人一首の歌人としても知られる藤原兼輔です。
藤原為時は、菅原道真の孫である菅原文時に師事し、和歌や漢学を学びました。
その学才が認められ、師貞親王の教育係や文官などを歴任しました。
984年(永観2年)には、師貞親王が花山天皇として即位した際、式部丞 六位蔵人に任命され、天皇の給仕や宮中の雑事を担当しました。
しかし、花山天皇の退位後は官職に恵まれず、特に役職がない状態が続きました。
紫式部との関係
藤原為時は、紫式部の父としても知られています。
紫式部は彼の影響を受け、その文学的才能を開花させました。
為時は彼女に漢詩や和歌を教え、その知識と教養は『源氏物語』の執筆にも大きな影響を与えたと考えられます。
漢詩と越前守任命の真相
漢詩「苦学寒夜、紅涙霑襟」の由来
藤原為時が越前守に任命されるきっかけとなった漢詩「苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」は有名です。
この詩は、彼が官職を得られず、努力が報われないことに対する嘆きを表現しています。
特に一条天皇の心を動かしたとされています。
実際にこの詩を分析していくと次のような形になります。〇は平音、●は仄音をあらわしています。また( )の中はその分類を示しています。
苦●(上)学●(入)寒〇(寒)夜●(去)
紅〇(東)涙●(去)霑〇(塩)襟〇(侵)
除〇(魚)目●(入)後●(上)朝〇(簫)
蒼〇(陽)天〇(先)在●(上)眼●(上)
この時代でも漢詩は五言又は七言ですので、四言詩というのは異例です。通常韻を踏むべき第2句末の襟〇(侵)と第4句末の眼●(上)もそろっていません。このため、この詩は漢詩としての形式を持たず、むしろ申文の一部であったという説もあります。
申文とは、官職を得るために朝廷に提出する文章であり、彼の苦学とその努力が報われない状況を訴えたものでした。
越前守への任命経緯と一条天皇の反応
996年(長徳2年)、藤原為時は一条天皇にこの漢詩を奏上し、その結果として越前守に任命されました。
当初は源国盛が任命される予定でしたが、為時の詩を見た一条天皇は深く感動し、彼を越前守に任命しました。
この詩が天皇の心を動かし、最終的に任命を変更させたという逸話が残っています。
藤原為時の業績と晩年
越前国での行政と功績
越前守として赴任した藤原為時は、地方行政の責任者として多くの業績を残しました。
彼の漢文の才は、宋の商人や官人との交渉に活かされ、地域の発展に寄与しました。
越前国での統治期間中、彼はその知識と経験を活かし、地方行政の効率化に努めました。
晩年と出家、没年の謎
1014年(長和3年)、紫式部が亡くなった年に、藤原為時は任期を繰り上げて帰京し、翌年に出家しました。
しかし、彼の没年は不明であり、その晩年については多くの謎が残されています。
彼の出家は、官職に恵まれなかったことや、娘の死による精神的な影響があったと考えられます。
紫式部への影響
父親としての教養と教育方針
藤原為時は、紫式部にとって重要な教育者であり、その教養と教育方針は彼女の文学作品に大きな影響を与えました。
彼の指導により、紫式部は漢詩や和歌の技術を習得し、その才能を開花させました。
為時の教えは、紫式部が『源氏物語』を書く上での基盤となりました。
源氏物語への影響
『源氏物語』には、藤原為時から受け継いだ知識と文化が随所に見られます。
彼の影響は、物語の中で描かれる宮廷文化や詩の表現に顕著です。
また、父親としての教養が、紫式部の作品に深い洞察と感情をもたらしたことは疑いありません。
まとめ:藤原為時の歴史的意義
藤原為時は、平安時代の文化と政治において重要な役割を果たしました。
彼の漢詩の才能と地方行政の経験は、後世に多くの影響を与えました。
また、紫式部の教育者として、彼女の文学的才能を開花させ、『源氏物語』という不朽の名作の誕生に貢献しました。
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