伊東祐親に追われた源頼朝はどのように逃げられたのか

鎌倉殿の13人

源頼朝は伊東祐親の娘の八重姫と関係をもってしまい、子の千鶴丸まで設けることになります。京の大番から戻った伊東祐親は、このことを知り激怒します。

そして、千鶴丸を殺して、源頼朝を殺そうとしますが、頼朝は難を逃れます。「鎌倉殿の13人」では女性に化けた頼朝を馬にのせて北条義時が逃げますが、いったいどのように逃げたのか考えてみましょう。

源頼朝が伊東祐親に追われたいきさつは

源頼朝が伊東祐親から追われるようになったときに、伊東祐親の身内に頼朝を助ける人がいたのです。その人は伊東祐親の次男である伊東祐清です。「鎌倉殿の13人」では竹財輝之助さんが演じています。

この人は、妻が比企尼の三女になるのです。比企尼は頼朝の乳母でありその当時は夫の任地である武蔵国比企郡に居ました。

そして頼朝が伊豆に配流されて以来、ずっと経済的な支援をし続けていたのです。ひょっとしたら伊東祐清が比企尼の三女を妻としたいきさつも比企尼の計らいがあったのかもしれません。

また、伊東祐親の娘の八重姫と頼朝との関係を取り持ったのも伊東祐清かもしれません。そう考えるとなんとなくわかりそうな気がしますよね。

しかも第二話の最後のところで源頼朝が北条義時に打ち明けていましたよね。自分が伊東家を頼りにしたのは、自分の協力者を持つためだと。案外、こんなところを次男の祐清と相談していたのかもしれません。

源頼朝が八重姫と関係したころどこに住んだか

源頼朝が伊豆に配流されたときも、現在言われている伊豆半島の真ん中の蛭ヶ小島で北条時政が監視役というのは違うような気がするのです。

伊豆の国において平家に信頼の厚いのは伊東祐親ですから、こんな危険人物は伊東祐親に監視させる方が理に適っています

それに、蛭ヶ小島から伊東荘までは20㎞ぐらい離れていますし、山道を超えることになるので、八重姫と関係を持つには遠すぎるのです。従って、頼朝は伊東荘又は宇佐美荘の近傍にいたと考えるのが自然かと思います。

それに、蛭ヶ小島に住んでいたなら、伊東祐親の娘である八重姫よりは北条時政の娘の政子に関係を持とうとするでしょう。これでは順番が逆になるので、説明がつきにくいのです。

源頼朝に身の危険を知らせたのは誰か、どこへ逃げたか

これは、もうお判りでしょう。伊東祐親の次男の祐清ですね。これしか選択肢はないと思います。そして、頼朝が逃げるところはズバリ伊豆山神社です。

伊豆山神社とはどんなところか

伊豆山神社は今の熱海の北東1.5㎞ぐらいのところにあります。全国にある伊豆山神社、走湯(そうとう)神社、伊豆神社の総本山とも言われています。

いろいろな名称で呼ばれていて、伊豆山権現、伊豆大権現、走湯権現、走湯山権現などと言われています。創建は考昭天皇の時代で紀元前4世紀、5世紀と言われています。それなりに社格がある神社です。

何だ神社かと言わないでください。この当時の神社仏閣は基本治外法権の世界ですので、誰それが逃げ込んだから簡単に捕まえに入るというものでもないのです。

しかもこの程度の社格の神社であれば武装勢力も持っていたことと思います。中央へのパイプも持っていたことでしょう。

それなりに許可を求めなければいけませんし、事前に話ができていればそんなもの知らんと言ってしまえば手も足も出ないのです。しかも、現在と近い相当の広さを持っていたこと思われます。

何しろ、八重姫の事件が発生してから頼朝が挙兵するまで数年の年月が経っています。そんな期間ですから、後半は蛭ヶ小島に移ったとしても、少なくとも年単位でこもっている必要があるわけですから。よっぽどしっかり守られていなければならないのです。

こんなところは伊東祐清がそれなりに手を尽くしたことでしょう。

次の段階として登場するのが北条時政です

取り敢えず伊豆山神社に逃げ込んで身の安全を確保したものの、いつまでも亀のように引っ込んでいるわけにはいきません。そこで登場するのが北条時政と考えられるのです。

伊東祐清と北条時政との関係は

根拠はあります。北条時政は伊東祐清の烏帽子親だったのです。そんなことから、頼朝のことを相談した可能性はあると思います。

そして、頼朝が伊豆山神社に立てこもっている間に、頼朝と北条一族の交流が始まったのではないでしょうか。北条時政の嫡男宗時が坂東の豪族の不満をもとに、頼朝を立ててという説も一般には出ていますが、それならこの頃からでしょう。

源頼朝と北条政子の交際が発展して

頼朝と北条政子が親密な関係に発展していくことになるのです。伊豆山神社には頼朝と政子の腰掛石などが残っていますから、そんな状況だったのでしょう。

しかし、時政もそれは想定外のようでした、何とか政子を伊豆の目代である山木兼隆と結婚させようとしますが、政子は頼朝のもとに逃亡してしまいます。

北条時政も平家の一門ではあるものの、源義朝の一の家臣であり、最後を共にした鎌田政清が烏帽子親になっていることから、源氏に対してもある程度のシンパシーがあったとも想定されます。

そんなことから、伊東祐親とは異なりしぶしぶ結婚を認めるということになったのでしょう。

鎌倉殿の13人の第二話では大庭景親が仲を取り持ったといわれていますが、北条時政が舅であった伊東祐親に何とか頼み込んで頼朝と政子の結婚を機会に頼朝襲撃を中止させたのではないでしょうか。

そうでもないと、「鎌倉殿の13人」のように伊東家と北条家が紛争を起こすことになってしまいます。その段階では北条家は伊東家に全く敵わないはずですので、早くも滅びてしまいます。北条時政の交渉力が功を奏したのではないでしょうか。

伊東祐親に追われた源頼朝はどのように逃げられたのかのまとめ

「鎌倉殿の13人」では北条家の嫡男北条宗時が源頼朝をかくまって、そして、政子がこれを見つけて頼朝と仲が良くなります。

そして、伊東祐親に頼朝が北条家にかくまわれていることがわかり、祐親は北条家に押し寄せる設定となっています。

そこで、北条義時が頼朝を女性に仕立てて逃げ出す設定となっていますが、これでは、伊東家と北条家の紛争が起こってしまいます。取り敢えずは大庭景親のとりなしで戦闘は避けられましたが、時代を合わせると数年間紛争が続く状態ですから、もう少し設定を変えられないかと考察してみましたがいかがでしょうか。

伊豆山神社はたくさんの神社が設置されている相当大きな神社だったようです。紹介しましたように頼朝と政子の腰掛石もあるようです。また伊豆山神社のシンボルとして赤白二龍の装飾が施されており、夫婦和合や縁結びの象徴ともなっていることも何かと関連するのでしょう。

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