1180年(治承4年)源頼朝が挙兵しますが、鎌倉を目指して侵攻しようとしたとき相模国大庭景親に大敗してしまいます。土肥実平に手引きもあり船で安房に脱出します。
そこで加勢をしたのが、佐藤浩市さん演ずる坂東で最大勢力の上総広常です。なぜ敗れて手勢もない頼朝を助けたのかを調べてみましょう。
上総広常はどんな人だったのか
生年は不詳ですが、上総権介平常澄の八男で嫡男です。
国を治める制度は、本来は守が長官、介が次官、その下に掾、目という順序に続くのですが、上総国は親王が守になるため、実質的に介がトップになるのです。
しかも上総氏は上総国、下総国に多くの所領を持っている大豪族でした。
家系的には房州平氏惣領家ですから平家なのですが、古くから源氏とのつながりのある家系でした。
保元、平治の乱の後の上総広常
上総広常は源義朝の家来であったので、保元の乱のときには源義朝のもとで戦います。また、平治の乱では義朝の長男義平に従い戦いますが、敗れてしまいます。
敗戦後は上総まで難を避けて脱出していました。
平氏政権になってからは逆境とはなるものの、一貫して上総国を支配していました。
しかしながら、父常澄がなくなると上総氏の家督相続で、兄弟間で抗争が続くことになります。
併せて頼朝挙兵の前年1179年(治承3年)平家の有力な家人伊藤忠清が上総介に任じられます。その際に坂東8ヵ国の侍の別当として坂東の武士団を統率する権限も与えられてしまいます。
この伊藤忠清は10年前に上総国に流されたことがあり、この時は上総広常の歓待を受けて過ごしていました。
そんな事情もあったのですが、広常と忠清は領地経営を巡り対立することになります。広常にすれば、10年前の恩を忘れて、権力をかさにという思いでしょう。
京に弁明に息子の能常を派遣しますが、拘束されてしまいます。このため広常は平清盛に勘当されてしまいます。
また、平家の姻戚である藤原親政も下総国に対して勢力を広げてくる状況となってきておりました。
そんな事情もあって、下総広常はいずれ平家とは戦うことになる状況だったようです。問題はそのきっかけと大義名分だけだったようです。
ちょうど頼朝からの誘いがありその大義もそろった状況になったのです。
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源頼朝の再興
安房国に逃げた源頼朝は上総広常、千葉常胤に対して1180年9月4日に使者を送り参軍を募ります。
千葉常胤は5日後の9月9日に参加の報告がもたらされます。しかしながら、上総広常は参加したのはそれに遅れること10日の19日のことです。
「吾妻鏡」によれば、上総広常は源頼朝がどんな程度の人か見極めるために、わざわざ遅らせて、器量がないならそのまま首を取って平家にもっていこうと考えたといわれています。
ところが頼朝のところに到着すると、遅参を叱責され、その態度ははなはだ立派であったので、従うこととなったとされています。
しかし、上総広常は両国で家督相続、平家との争いを抱えていましたので、そう簡単に駆け付けられる状況ではなかったと思われます。
このため10日余りの遅参となりましたが、この事が、頼朝にとっては根っこに小さな不信感を抱かせたのかもしれません。
上総広常の助力を得た源頼朝は
一旦参加すれば、坂東で最大級の動員数を誇る豪族ですから、1万人程度は動員できたのではないでしょうか。
このため、石橋山を抜け出す時とは打って変わった大勢力となり、頼朝は人生最大の危機を乗り切ることができたのです。
坂東ではもはや頼朝に対抗できる勢力はいなくなりますので、その後は思いのままになるわけです。
源頼朝の鎌倉入り
武蔵国に入るころには数万という軍勢に膨れ上がっています。そして10月7日には鎌倉入りすることになるのです。11日には伊豆権現に預かられた政子も鎌倉にやってきます。
もうこうなると頼朝に逆らうものはいなくなるのです。
更に、11月には富士川の戦いがあり、平家は戦うことなく退却、惨敗してしまいます。たった4ヵ月の間になんという違いであったことでしょう。
上総広常はなぜ石橋山の戦いで敗れた源頼朝を救ったのかのまとめ
源頼朝は上総広常という坂東最大の勢力の協力を得ることで、石橋山の戦いの惨敗という人生の二度目の危機を乗り越えることができました。
その後は上総広常は頼朝の有力御家人として鎌倉幕府を支える重要人物となっていくのです。後に、頼朝が後白河法皇と語ったときにこの時の上総広常の参加が勝敗を決したと言っているのは当を得ているでしょう。
しかしながら、この成功にはいくつかの問題点を残しています。
一つは、上総広常の資質もそうですが、この最大功労者ということが、本人の自信になりすぎてしまったことでしょう。このため、鎌倉幕府の中でも自他ともに存在感が大きすぎることです。
二つ目は政治姿勢の違いです。上総広常はあくまでも坂東の豪族です。坂東の中で完結する権力構造を目指しているのに対して、頼朝を含む為政者は日本全体の統治機構の中で、考えるということで、その政治姿勢の差が今後浮き彫りになってくるのです。
そして、最後に上総広常の悲劇的な最後に繋がることになるのです。詳細はまた別の機会としましょう。
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