鎌倉殿の13人・第11回ネタバレ・頼朝が3年間上京できなかった理由

鎌倉殿の13人

源頼朝は治承4年(1180年)10月富士川の戦いで平家追討軍に大勝した源頼朝でしたが、兵を京に送るのはその3年後の寿永2年(1183年)11月になります。

この3年の間頼朝はどんな事情で坂東に兵をとどめていたのでしょうか。確かに常陸国、上野国にはまだ敵対勢力がおり、坂東の平定が急務としても3年間は長すぎます。その原因を解説します。

坂東の敵対勢力の排除が頼朝自身の安定にも必要だった

源頼朝は残念なことに自身の戦力を持っていません。このため、上総広常などの坂東の豪族の部隊に戦ってもらう必要があるのです。このため、坂東の豪族の意向が強く反映されます。

頼朝が富士川の戦いで平家の追討軍を排除した時も、戦略的にはそのまま京に攻め込むのが筋ですが、そうはいきませんでした。

何しろ配下の豪族にそれだけの兵糧を調達する能力がなかったことが一つ、背後の親平家の豪族がいるため、その備えもないまま自分の領地をがら空きにするわけにはいかなかったことが二つ目になるのです。

このため、富士川の戦いの後、常陸の佐竹氏を攻略することになるのです。幸い佐竹氏は治承4年11月の金砂城の戦いで放逐することができましたが、まだこれだけでは十分ではなかったのです。

常陸国を本拠とする源義広

同じく常陸国を本拠としている源義広がいたのです。この人は立派な河内源氏の為義の三男にあたる人です。頼朝からすれば叔父さんにあたるのです。ちなみに義朝は異母兄、次男の義賢は同母兄等い関係です。

義賢にしても義広にしても何かと義朝とは折り合いが悪く、義賢は義朝の長男義平に討たれています。源氏にはこんな内輪もめがやたらにあったのです。従って義広と頼朝はやっぱり折り合いが悪いまま勢力を維持していました。

下野国を本拠とする足利敏綱

下野国足利荘を根拠として足利敏綱がいました。この人は藤原秀郷を祖とする系列ですが、この勢力も親平家勢力です。

この両者は寿永2年(1183年)2月に蜂起して野木宮合戦と言われる戦いで、頼朝軍に敗退するまでは坂東で一定の勢力を誇っていたのです。こんなことですから、源氏方の坂東の豪族も容易に進軍することができなかったのです。しかも、彼らの関心は中央政府ではなく、自分の所領ですから。

武田信義が甲斐国、駿河国を領有していた

武田信義は源頼義の三男である新羅三郎義光の孫である源清光の二男として生まれ。武田氏の初代当主になる人です。この人は頼朝が挙兵した時には、既に甲斐国を実力で領有していたのです。

源頼朝が挙兵した時には、駿河国に攻め入って平家の目代を襲い、駿河国を領有するまでになっているのです。

すなわち治承4年(1180年)の段階では、独自勢力で、甲斐、駿河両国を領有している存在でした。従って実力では頼朝をはるかにしのいでいたと言えるのです。

ドラマの中でも頼朝に対して決してへりくだっていなかったでしょう。しかも頼朝は石橋山の戦いで大敗して、やっとのことで安房国に逃げ込んだ状態なのですから。北条時政、義時は甲斐国に逃げ延びたと言われているくらいですから。

今から見れば源頼朝は清和源氏の棟梁ということになっていますが、当時の常識としては、実力がほとんどですから、武田信義も実力次第では源氏の棟梁を標榜することができるのです。

当然、武田信義もそんなことは意識していたわけですから、頼朝とは一応反平家どいう同盟関係はあったものの緊張関係にあったはずです。

同じように木曽義仲も同じようなスタンスだったはずです。従ってこの時期は三者の源氏の棟梁候補がいたのです。

このため、頼朝がたとえ京を目指したとしても、目前の駿河国を押さえている武田信義を無視して通過することはできないのです。それができるのは朝廷からの命令を取り付ける必要があったのです。

武田信義にしてもそんな事情ですから、かってに頼朝に京に上がられては困るのでそれなりの工作はしたと思います。

そんな有力候補だった武田信義も源頼朝工作の前に敗れていくのです。甲斐源氏の分裂が始まってしまいます。

弟の加賀美遠光、自分の子である石和信光が頼朝側に接近したり。後に自分の子である一条忠頼が暗殺されたりで、甲斐源氏の勢力も最後は頼朝側に取り込まれてしまいます。こんなところは頼朝の方が一枚上手だったのです。

養和の大飢饉により大規模な動員が困難に

治承4年(1180年)から降水量がとても少なく、全国で飢饉が発生します。特に西日本の被害が多く餓死者が出るなどして、農民が土地を放棄することが多くなりました。

翌年の養和年間も飢饉が引き続きます。京では餓死者の埋葬が追い付かず、遺体があふれる状態となったと言われています。全国の人口が600万人と推定される時期ですが、京だけで餓死者が4万2千人になったといわれています。

そんな状況ですから、大規模な兵の動員は困難だったのです。水鳥の羽音で逃げ出したことで有名な富士川の戦いでも、平家は5万の動員を計画したのですが、実際は4千にも満たなかったと言われています。この原因も食料の調達が難しかったのが原因と言われています。

従って、近距離なら何とかなる兵の動員も、坂東から京となるとたちまち困難になってしまうのです。ましてや、頼朝は豪族の軍隊に拠っているわけですから、難しかったことでしょう。

頼朝が3年間上京できなかった理由のまとめ

源頼朝が富士川の戦いで大勝してから、坂東でとどまるのです。正式に弟の源範頼、義経を派遣するのは3年後になるのです。

しかしながら、背後の親平家勢力。目の前の武田信義、あわせて養和の大飢饉を考えるとそう簡単に兵力を動員するわけにはいかない事情も分かります。

こんな事情ですが、坂東にいる三年間の間に、背後の源義広、足利敏綱を排除し、しかも武田信義の勢力をそぐ外交努力をしているのです。

早々と京に攻め入った木曽義仲は京での無理な食糧調達が自分の没落を招いたことを考えると、これらの不利な条件を克服し、逆手に取った力量は相当なものがあると思います。

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