平家物語・第十一話解説・平家の公達の行方

アニメ平家物語

平家物語の特に平家の公達は〇盛が多くて、誰の息子か、兄弟かがわからなくなります。そのため、平家の公達の整理をしてみたいと思います。

彼らがどのような最期を遂げたかもまとめてみたいと思います。そうすると意外なことがわかることになります。

平清盛の兄弟たち

平清盛の兄弟たちは第一世代ですが、年が近いせいかずいぶん活躍しています。

平家盛(いえもり) 平忠盛の次男で従四位右馬頭まで進みます。久安5年(1149年)鳥羽法皇熊野詣に随行の途中、宇治川で病没。23歳。母は池禅尼です。家盛の容貌が源頼朝とよく似ていたので、池禅尼が清盛を説得したと言われています。

平経盛(つねもり) 忠盛の三男で正三位太皇太后宮大夫まで進みます。文治元年(1185年)壇ノ浦の戦いで入水。62歳。

平教盛(のりもり) 忠盛の四男で従二位権中納言まで進みます。文治元年(1185年)壇ノ浦の戦いで入水。58歳。

平頼盛(よりもり) 忠盛の五男で正二位権大納言まで進みます。寿永2年(1183年)平家都落ちに際して後白河院を頼り、源頼朝に亡命。頼朝の本領安堵を受けます。文治2年(1186年)病のため54歳で亡くなる。母親は池禅尼です。

平忠度(ただのり) 忠盛の六男で正四位下薩摩守まで進みます。元暦元年(1184年)一の谷の戦いで戦死。41歳。

平清盛の息子たち

平家の中心たる平清盛の息子たちを調べていきます。

平重盛(しげもり) 清盛の後継者として正二位内大臣まで行きます。今後を期待されたが、治承3年(1179年)42歳で病没。

平基盛(もともり) 清盛の次男で正四位下越前守になりますが、応保2年(1162年)24歳で病没。

平宗盛(むねもり) 三男で従一位内大臣に進みます。重盛亡き後一門の棟梁になりますが、元暦2年(1185年)壇ノ浦で捕まり、近江国で斬首。39歳。

平知盛(とももり) 四男で従二位権中納言まで進みます。壇ノ浦の戦いで入水。34歳。

平重衡(しげひら) 五男で正三位蔵人頭まで進みます。一の谷の戦いで捕まり、文治元年(1185年)木津川畔で斬首。29歳

平維俊(これとし) 六男ですがこの人だけは経歴がはっきりしません。

平知度(とものり) 七男で従五位上三河守まで進みます。寿永2年(1183年)倶利伽羅峠の戦いで戦死。

平清房(きよふさ) 八男で淡路守まで進みます。元暦元年(1184年)一の谷の戦いで戦死。

平経盛、平教盛の息子たち

平清盛の息子たちの従兄弟にあたる人々です。

平経正(つねまさ) 平経盛の長男で正四位下但馬守まで進みます。寿永3年(1184年)一の谷の戦いで戦死。

平経俊(つねとし) 平経盛の四男で従五位下若狭守まで進みます。寿永3年(1184年)一の谷の戦いで戦死。

平敦盛(あつもり) 平経盛の末子で従五位下まで進みます。寿永3年(1184年)一の谷の戦いで戦死。この人は有名ですよね。17歳。

平通盛(みちもり) 平教盛の長男で従三位参議まで進みます。寿永3年(1184年)一の谷の戦いで戦死します。32歳。

平教経(のりつね) 平教盛の次男で正五位下能登守まで進みます。元暦2年(1185年)壇ノ浦の戦いで源氏の郎党を抱えたまま入水。26歳。

平業盛(なりもり) 平教盛の三男で従五位下蔵人まで進みます。寿永3年(1184年)一の谷の戦いで戦死。

忠快(ちゅうかい) 平教盛の息子ですが安元2年(1176年)受戒します。平家一門とともに都落ちして従いますが、壇ノ浦の戦いで捕らえられ、伊豆に配流されます。しかし、源頼朝の帰依を受けて、父教盛の領地を返還されます。更に鎌倉に下り、権少僧都から権大僧都に進み幕府、朝廷からも信頼を受けるようになります。

平重盛の息子たち

平家物語の中心人物と言える重盛の息子たちです。

平維盛(これもり) 重盛の長男で従三位蔵人頭まで進みます。寿永3年(1184年)戦線を抜け出して那智で入水。27歳。

平資盛(すけもり) 重盛の次男で従三位蔵人頭まで進みます。元歴2年(1185年)壇ノ浦の戦いで入水。25歳。

平清経(きよつね) 重盛の三男で正四位下左近衛権中将まで進みます。寿永2年(1183年)豊後国の柳浦で入水。21歳。

平有盛(ありもり) 重盛の四男で従四位下右近衛権少将まで進みます。元暦2年(1185年)壇ノ浦の戦いで入水。22歳。

平師盛(もろもり) 重盛の五男で従五位下侍従兼備中守まで進みます。寿永3年(1184年)一の谷の戦いで戦死。18歳。

平忠房(ただふさ) 重盛の六男で従五位下侍従兼丹後守まで進みます。屋島の戦いの後、陣を抜け出して潜伏するが、壇ノ浦の戦いの後、抗戦後降伏する。文治元年(1186年)鎌倉に送られたのち、近江で斬られる。

平宗実(むねざね) 重盛の七男で従五位上土佐守まで進みます。平家の都落ちには加わらず、東大寺で出家した後、鎌倉に呼び出される途中で断食死したとも言われている。その他生存説もあり不明。

平重盛の弟である平基盛、平宗盛、平知盛の息子たち

平重盛の息子たちの従兄弟にあたる人たちです。

平行盛(ゆきもり) 平基盛の長男で正五位下佐馬頭まで進みます。元暦2年(1185年)壇ノ浦の戦いで入水したとも戦死したとも言われています。一説では記録がないため生存説もあります。

平清宗(きよむね) 平宗盛の長男で正三位右衛門督まですすみます。壇ノ浦の戦いで入水するも捕まり、鎌倉に護送されたのち元暦2年(1185年)近江にて斬首。16歳。

平能宗(よしむね) 平宗盛の二男で従五位上まで進みます。壇ノ浦の戦いの後捕らえられ京で斬首。8歳。

平智章(ともあき) 平知盛の長男で従五位上武蔵守まで進みます。寿永3年(1184年)一の谷の戦いで父知盛を守って戦死。16歳。

平増盛(ぞうせい) 平知盛の次男ですが出家させられたため平家の都落ちにも加わらず。鎌倉幕府からも罪に問われず、鎌倉で源義朝の菩提寺である勝長寿院に住むことになります。

平知忠(ともただ) 平知盛の三男で従五位伊賀の守に進みます。平家の都落ちに加わらず伊賀で育てられます。建久7年(1196年)法性寺にあらわれ源頼朝の妹婿の暗殺計画を進めるが発覚して討ち取られます。17歳。

平知宗(ともむね) 平知盛の四男で平家の都落ち後に誕生し、壇ノ浦の戦い以降は鎮西奉行武藤資頼に育てられ養子となる。建長7年(1255年)72歳まで生きながらえます。

平家の公達の行方のまとめ

平家の公達のリストをまとめてみました。ここまで集めると全貌がわかってきますよね。しかし、まだまだ足りないのですが、当面この程度で整理を終えたいと思います。

こうしてみていくと、最後の壇ノ浦の戦いでの入水が多いのはわかりますが、一の谷の戦いの戦死者が多いのには驚かされます。一の谷の戦いが激戦であり、平家の大きな損害につながったことも予想されます。

また、この中には命を長らえた方も何人か見つかっています。どのような経緯で助かったかもこれから順次調べていきたいと思います。

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