平家物語・第十話ネタバレ・一の谷の戦いから壇ノ浦に至るまで

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一の谷の戦いによって平家は有力な武将を失いますが、壇ノ浦の戦いで滅びるまでの1年1か月の間も、あまり知られていない幾つかの重要な戦いがあります。

それらを辿っていくことで治承・寿永の戦いの全貌がわかるようになります。

一の谷から壇ノ浦の戦いまでの戦いの全貌

1184年2月の一の谷の戦いで大損害を被った平家は、四国の屋島を本拠地として瀬戸内海一体の制海権を押さえることになります。陸上での勢力は大幅にそがれたものの、もともと水軍では優勢でした。

屋島には安徳天皇を奉って内裏が作られていました。しかし、平家の側にも一つだけ強みがありました。それは安徳天皇と三種の神器を確保していることです。

源氏のもとで院政を復活した治天の君の後白河法皇のもとで、後鳥羽天皇を立てることができたものの、三種の神器がないことが傷として残るのです。

主なものでは、次のような戦いが起こっています。

1184年7月、8月伊賀国、伊勢国での三日平氏の乱、12月の備前国での藤戸の戦い。

1185年2月の筑前国での葦屋浦の戦い、2月の讃岐国での屋島の戦い、3月の讃岐国での志度の戦い。

1185年3月の長門国での壇ノ浦の戦い。

このような戦いを繰り返して、平家は追い詰められていくのです。

三日平氏の乱が起こる

三日平氏の乱と言いますとわずか三日で終わったかのような印象がありますが、実際は2ヵ月ほど続いた乱です。名前はその後に起こった乱と混同してしまってこの名称がついています。

前年の平家都落ちで、諸国に落ち延びたうち、桓武平氏とつながりが深い伊賀国、伊勢国で起こした反乱です。

平忠盛、清盛に仕えた伊賀国の平貞能の子である家継が中心となって反乱を起こします。また、伊勢国でも同様に平信兼が反乱を起こしたものです。7月19日には近江国で平家継が討ち取られ、8月10日には平信兼が討ち取られます。

この戦いの中で、源義経が京を中心にこの乱の鎮圧を命ぜられて、屋島の戦いまで平家追討に参加することができませんでした。

源範頼の討伐軍は鎮西を目指す

源範頼が率いる征討軍は9月に京を出発して九州を目指しますが、平家の水軍にたびたび襲撃されることになります。これは平家の退路を断とうとするもので九州を押さえてしまえば瀬戸内海に閉じ込めることになるのです。

藤戸の戦いで平家の拠点を攻略

10月には前線は安芸国に届きますが、兵站をたえず襲撃されます。その中心は備前国児島に備えた平家の拠点でした。しかし、児島は現在と違い島となっているため、源氏の軍は手出しができないようになっていました。

佐々木盛綱が陸側から海の浅いところを近所の漁師に聞き出して、海峡を渡ります。これに源氏の兵が続いて島を攻略し、平家の拠点を滅ぼすことになるのです。これが藤戸の戦いです。

藤戸の戦いでは、佐々木盛綱が情報漏洩を避けるために、海峡の浅いところを教えた漁師を殺害したという逸話が残っています。

源範頼が鎮西に上陸した後の葦屋浦の戦い

源範頼が率いる征討軍は鎮西(九州)に上陸し、平家の退路を断つことを目指します。平家は長門の彦島に拠点を構えているため、なかなか鎮西に上陸するのは難しかったのです。

また、筑前国(福岡県)には平家が大宰府を目指したときに助けた豪族原田種直がいます。

このため、豊後国(大分県)から緒方惟栄と臼杵惟隆が軍船を用意し周防(山口県)に届けます。範頼軍は周防から豊後に上陸し、北上して2月の原田種直とのとの戦いになるのです。

原田種直は討ち取られてしまい。鎮西からは平家の勢力が一掃されてしまいます。残されたのは関門海峡の彦島の平家勢力だけとなってしまいます。

源義経が四国の平家勢力を攻略することに

源義経は公家、貴族が平家の反乱を恐れていて京に留まるようにと要請されていましたが、四国の平家追討に乗り出します。

1185年2月18日です。当日は暴風雨で四国に渡るのは無理と考えられていましたが、義経は強引に出航してしまいます。そして僅か数時間で阿波国にたどり着きます。

源義経は屋島の戦いで平家の根拠地を攻略する

そこから陸路で屋島まで向かいます。平家は海上からの攻略に備えていたことと。平家の軍勢は伊予に出陣中であったため、屋島を守る勢力は手薄であることを知り、2月19日に攻略してしまいます。

平家は予想外の攻撃により、内裏も御所も焼失し、海上に逃亡することになります。この時の逸話として有名なのが那須与一の扇の的です。

源義経は志度の戦いで終結した平家を攻略する

屋島を失った平家は、讃岐国の志度に集結しますが、2月21日に源義経に攻略されてしまいます。こうして、瀬戸内海に勢力を振るった平家も、陸地をすべて源氏に押さえられてしまうことになります。

最後に残されたのが、長門国の彦島だけになるのです。

一の谷の戦いから壇ノ浦に至るまでのまとめ

一の谷の戦い以降の源平の戦いを概観してきました。一の谷の戦い以降については屋島の戦いしか知られていないので、1年間の間にどのようにして、平家が壇ノ浦まで追い詰められたのかがわかりませんでしたが、このように全体像を見ていくとよくわかるようになります。

源氏側としては、鎮西に平家を逃がさないようにするために、陸路を山陽道から鎮西にまで進出して、平家の退路を断つことが絶対条件だったのでしょう。そしてそれを実施しつつ四国の屋島を攻め、陸地から平家の根拠地を奪っていったのです。

最後に残ったのが、長門国の関門海峡にある彦島です。そのことから、最後が壇ノ浦であることは容易に理解できるでしょう。この1年間は平家の勢力もじり貧ですし、どんどん寝返りも出るのでとても苦しい状況であることが理解できます。

それでも、屋島の戦いの前には、後白河上皇から三種の神器の返還を条件に講和の誘いがあったようですが、平家の拒否にあって、生き残りのチャンスを失ったようです。講和したところで、最後は討ち果たされてしまうでしょうが。

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