平清盛から平家の棟梁はどのように受けついでいったのか

アニメ平家物語

平家と言えば平清盛ですが、その後、平家の棟梁はどのように受け継げられたのでしょう。二代目としての平重盛と知っている人はいるでしょうが、その後になると知っている人は稀でしょうね。

三代目は平宗盛なのです。ただし、この人は平重盛の弟になります。どのような理由で受け継がれ、どのような業績があったかを紹介します。

平家の棟梁は平清盛から重盛にどう受け継がれたか

平重盛は1138年(保延4年)生まれです。平清盛の正室であった高階基章の娘を母として清盛の長男として生まれています。

その意味では平家の棟梁になる資格が十分にあったわけです。実際に保元、平治の乱では父の清盛を助けて武勇の方も十分な実力があったわけです。順調に出世を重ねて権大納言までいきます。

1167年(仁安2年)東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨が重盛に下され、軍事・警察の権限をゆだねられています。そして清盛が太政大臣を辞任したころが正式に重盛が平家の棟梁になったと考えられています。

平家の棟梁になったとはいえ、父親の清盛は表面的には政治の表舞台から姿を消したことになっていますが、すべて清盛の意向に沿った動きをすることになります。

またしばしば、行き過ぎた清盛の行動を諫めたり、是正したりして苦労していたようです。やがて、1179年(治承3年)長年の心労がたたったのか、父の清盛に先立って亡くなってしまいます。42歳でした。

当時の重盛の評判も極めて良いため、武士として優れているだけでなく、温厚な性格から周りからは頼られる役割であったようです。

平重盛の後、平家の棟梁になったのは誰でしょう

平重盛が亡くなった時に平家の棟梁になる可能性があったのは、2人に絞られます。第一は平重盛の嫡男である維盛(これもり)です。もう一人は平重盛の弟である三男の宗盛です。なお、次男の基盛がいましたが、23歳で亡くなってしまいましたので、対象とはならないのです。

平維盛の可能性について

平維盛は1159年(平治元年)に父重盛、母は平時信の娘で、重盛の長男として生まれています。若いころからその美しさから光源氏の再来と言われていました。

しかしながら、生まれが1159年ですから、重盛がなくなったときにはまだ20歳です。しかも、実戦の経験もほとんどないことから、やはり一門の棟梁となるには経験不足ということになります。

また、父重盛は鹿ケ谷の陰謀に加わった藤原成親の妹を妻としていること、維盛は藤原成親の娘を妻としていることから、平家一門の中における立場が弱くなっていることも加わっています。

平宗盛の立場はどうだったのでしょう

平宗盛は1147年(久安3年)父親平清盛と母時子の間に生まれました。清盛にとっては三男でしたが、時子にとっては第一子になるわけです。

保元の乱の時には父清盛と同行して熊野参詣にでかけていました。その後は兄の重盛の後を追うように地位についており、重盛がなくなったときには権大納言になっております。

母の平時子は二位の尼と言われ、時子の妹の滋子は後白河法皇の女御であり、高倉天皇の母でもあるという関係もあります。

そのような状況もあり、平家の棟梁は宗盛に決められたようです。

平宗盛の人となりは

平宗盛は兄の重盛と比較するとはなはだ評判が良くない人物として描かれていることが多いのです。他人に対して思いやりがなく傲慢な性格として描かれています。

しかしながら、妻の清子がなくなったときには、官職を辞していたり、源氏に捕らえられた時も、清宗の安否を気遣うなど家族思いの一面もあるのです。そんな宗盛のエピソードを紹介しておきます。

名馬木下(このした)を強奪したこと

源頼政の嫡男仲綱の名馬「木下」を欲しがり、仲綱がずいぶん嫌がっているのを無理やり借り受けてしまいます。

しかも、その馬に「仲綱」という名前を付けて、焼き印まで押して、公衆の面前で辱めるということもしています。これが源頼政が以仁王の乱のときの挙兵の一員だったとも言われています。

しかし、その後には、頼政の部下の源競(きそう)が仕返しをして、宗盛に偽って寝返った様子を見せて、宗盛所有の名馬を借り受け、たてがみと尾を切り落とし、それに「平宗盛入道」の焼き印を押して平家方につき返したとも言われています。

壇ノ浦での醜態

壇ノ浦でも大した活躍をしなかったばかりか、敗北が決定的になっても入水しなかったため、周りの者が無理やり海に落としたと言われています。しかしながら、宗盛は泳ぎができたため浮いてしまい、源氏の捕虜となってしまいます。

その様子を見ていた母親の時子は自分の子ではないとまで言ったといわれています。時子は安徳天皇とともに入水することになります。

源氏の捕虜になってから

宗盛は一緒に捕虜になった嫡男清宗の安否をたえず気にしており、頼朝にも命乞いをする始末でした。そんなことからも世間の不評を買ったようです。その後京都に送られ、近江国篠原宿で処刑されます。享年39です。

平清盛から平家の棟梁はどのように受けついだかのまとめ

平家の棟梁は平清盛からどのように移っていったかを解説してみました。平清盛、重盛の頃は実戦経験もあり、それなりの統率力がありましたが、貴族化するにつれてだんだん部門としての戦闘力が落ちてくるのがわかるようになりますね。

やはり、ある意味で人材不足だったのではないでしょうか。

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