徳川家康の妻と子供たち:家康の側室一覧と家族構成を詳細解説

どうする家康

徳川家康の妻は何人いたのでしょうか、また、子供は何人いたのでしょう。戦国時代でもあり家の子孫を残すことが重要だったでしょうが正室の築山殿、継室の朝日姫は別として、どうやら側室だけでも20人以上いたようです。それら妻と子供の概要を述べていきます。

正室築山殿と朝日姫:家康の正妻たちの背後にある物語

徳川家康の正式な妻とされていますのは、ご存じ築山殿と朝日姫ですね。家康の正妻たち、築山殿と朝日姫。彼女たちの背後には、戦国時代の政治的な背景や愛情の物語が隠されています。

築山殿/瀬名姫の悲劇的な運命:今川義元の娘から家康の正室へ(生年不詳~1579年)

父は今川義元の重臣関口親永で母は今川義元の伯母とも妹とも言われています。家康との間に長男信康を産んでいます。今川義元が織田信長に滅ぼされ、夫の家康が信長と同盟を結んでからは立場が悪くなり、武田側への内通を疑われ処刑されたと言われている悲劇の人です。

長男徳川信康(1559~1579)

家康の長男ですが、織田信長の娘である徳姫を妻に迎えます。織田信長から信の字をもらい岡崎城主になりますが、母親同様武田側への内通を疑われ自害させられます。

長女亀姫(1560~1625)

家康の長女になります。最初武田側だった奥平信昌が織田側に付いた際に信昌に嫁ぐことになります。後に信昌が美濃加納10万石に移ったことから、加納御前/加納の方と呼ばれるようになります。

朝日姫の異なる道:家康の正妻への転身(1543~1590)

豊臣秀吉の異父妹とされています。最初は農民に嫁ぎますが、兄秀吉の出世に伴い夫も武士に取り立てられていきます。正妻がいない徳川家康を帰属させるため、夫と別れさせて44歳で継室として家康に嫁ぐことになります。以後駿府に居を構え駿河御前と言われていました。

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家康の側室一覧:20人以上の女性たちの物語

家康の側室たちは20人以上とも言われています。彼女たちの中には、家康との間に子供をもうけた者や、家康の政治的な動きに影響を与えた者もいます。

家康の側室たちは、多くが関東の名門出身でした。これは、家康が関東の名門との関係を深めるための政治的な戦略の一環だったと言われています。

西郡局(にしのこおりのつぼね)(生年不明~1606)

三河の蒲郡の豪族で今川方の鵜殿長持の娘と言われています。

次女督姫(1565~1615)

1583年徳川と北条の和睦に際して、北条氏直の正室として嫁ぎ、2女を産みます。北条氏直は小田原征伐の後高野山に流され、1591年に没します。その後、1594年豊臣秀吉の指示で池田輝政に嫁ぎ5男2女を産みます。

於古茶/於万の方/小督局(長勝院)(1548~1620)

三河国池鯉鮒神社の社人の娘として生まれます。正室築山殿の奥女中でしたが側室となります。

次男結城秀康(1574~1607)

小牧・長久手の戦いの後和睦の条件として豊臣秀吉の養子となります。本来は次男であるため信康亡き後の跡継ぎとなるべきですが、母の出自の関係もあり跡継ぎとはなりませんでした。やがて結城家の養子となり家を継ぎ、関ヶ原の戦い以降は越前に加増移封されます。

永見貞愛(ながみさだちか)(1574~1605)

結城秀康の双子の兄弟と言われていますが、双子は嫌われたため認知されていません。知立神社の第32代神主となります。

西郷局/於愛(1552~1589)

三河の豊橋地区の西郷氏の出です。最初の夫に先立たれ、同族の西郷義勝の継室になり1男1女をもうけますが、義勝も1571年に戦死してしまいます。その後家康の側室となります。大変な美人で人柄も良かったようですが、強度の近眼だったと言われています。

三男徳川秀忠(1579~1632)

江戸幕府第2代征夷大将軍ですから説明は不要でしょう。

四男松平忠吉(1580~1607)

松平家忠養子となり、三河東条城1万石、駿河沼津城4万石、武蔵忍城10万石、尾張、美濃国52万石と順調に来ましたが、病に侵されて早くに亡くなっています。このため弟の九男義直が尾張国を継ぐことになります。

於竹/良雲院(生年不明~1637)

武田家の臣下である市川昌永の娘とされています。

三女振姫/正清院(1580~1617)

豊臣秀吉の命により蒲生秀行と婚約し、2男1女を設け、関ヶ原の戦いの後、夫秀行は会津60万石となりますが、30歳で亡くなってしまいます。徳川家康の命により和歌山藩主浅野長晟に嫁ぎますが、長晟の次男を設けた後亡くなります。

於都摩/秋山夫人/下山殿/妙真院(1564~1591)

武田一門の家臣秋山虎康の娘で穴山信君の養女となります。穴山信君が織田氏に心中した時に家康の側室となります。

五男武田信吉(1583~1603)

武田氏滅亡後武田氏の名跡を受け継ぎます。家康の関東移封に伴い、下総小金城3万石に、その後佐倉城10万石に移ります。関ケ原の戦い以降は常陸国水戸25万石に封ぜられます。しかし病弱のため21歳で死去します。このため水戸藩は異母弟の十男頼宣が継ぐことになります。四男忠吉とよく似ていますね。

於茶阿/朝覚院(1550~1621)

本名は久で遠江国の鋳物師の後妻になっていたが、美人の久を見初めた代官が夫を殺害したため、鷹狩に来ていた家康に直訴したのがきっかけとされています。於茶阿は聡明で政治力もあったため奥ではかなりの力を持っていたようです。

六男松平忠輝(1592~1683)

双子で松千代の弟になります。1599年弟の松千代が長沢松平氏を継ぎましたが、早世したためその後を継ぐことになります。武蔵国深谷1万石から、下総国佐倉5万石に、更に信濃国中島藩12万石に、越後国高田藩30万石を加えられます。大阪冬の陣と夏の陣で家康の不興をかい、家康の死後伊勢国朝熊に流罪となり、更に飛騨国高山に預けられ、信濃国諏訪に預け替えになってその地で亡くなっています。

七男松平松千代(1594~1599)

長沢松平氏を継ぎますが早世します。

於亀/相応院(1573~1642)

石清水八幡宮の分家にあたる京都正法寺志水宗清の娘として生まれます。はじめ竹腰正時に嫁ぎ、夫の死後、石川光元の側室となりますが離縁となります。その後家康の側室となります。

八男平岩仙千代(1595~1600)

徳川十六神将の平岩親吉が嗣子がいないため養嗣子となりましたが早世しました。

九男徳川義直(1601~1650)

僅か2歳で25万石の甲府藩主となるが、元服後兄の四男松平忠吉を継いで尾張徳川家の藩主となります。

於久/普照院(生年不詳~1617)

北条氏の旧臣である間宮康俊の娘として生まれています。

四女松姫(1595~1598)

僅か4歳で早世しています。

於万/養珠院(1577~1653)

三浦義村を先祖に持つ三浦宗家の末裔で、正木頼忠の娘として生まれています。母親が蔭山氏広と再婚したため蔭山一族となっている。駿河国の星谷氏に養育され、江川永長の娘として家康の側室となります。

十男徳川頼宣(1602~1671)

2歳にして兄武田信吉の医療水戸藩20万石をあたえられます。その後駿府藩50万石に転封、更に1619年には和歌山藩55万石に転封し紀伊徳川家の家祖となりました。

十一男徳川頼房(1603~1661)

僅か3歳で常陸国下妻3万石を与えられ、後に常陸見水戸25万石に転封されます。水戸にはいかずに江戸で過ごしたため、水戸藩主は江戸城住みとなりました。水戸徳川家の家祖とされています。

於梶/英勝院(1578~1642)

関東の名門の末裔太田康資の娘とされています。大変聡明だったそうです。

五女市姫(1607~1611)

仙台藩の伊達政宗の嫡男と婚約するが4歳で夭折しました。

その他の側室としては、

於富(山田氏・信寿院)、於夏(清雲院) 長谷川藤直の娘、於六(養儼院)  黒田直陣の娘、於仙(泰栄院) 宮崎泰景の娘、於梅(蓮華院)青木一矩の娘、阿茶局(雲光院)飯田直政の娘、於牟須(正栄院)三井吉正の娘、於松(法光院)三条氏、松平重吉の娘

などの名前が残っています。それにしても関東の名門と関係を持ちたかったということでしょうが多いですね。

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