1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵にあたっては、相模国の大豪族である三浦一族の参加が大前提であったのです。
しかしながら、石橋山で頼朝が大庭景親と対峙したときに、三浦一族は雨による増水で合流することができませんでした。これが石橋山の頼朝の大敗に繋がるのです。
その後、三浦一族はどのような行動をとったかを説明します。
鎌倉殿の13人に至る三浦一族の系譜
三浦氏はもともと平氏系の一族でしたが、三浦為通から始まったとされています。三浦為通は前九年の役に参加し、源頼義から相模国三浦の領地を与えられたとされています。
その息子の三浦為継は後三年の役に参加し、武功を挙げており、三浦氏発展の基礎を築いたとされ、為通よりも為継を初代とみる見方もあります。
なおこの間に安西氏がわかれており、安房国に勢力を伸ばしています。
その息子の三浦義継になると三浦郡の支配を確立し、三浦介を称するようになります。更に相模介ともなります。
三浦義明(1092~1180)
義継の嫡男の三浦義明になるとやっとこの話をしている時代にたどり着きます。三浦義明は保元の乱、平治の乱で源義朝に従いますが、平治の乱で敗れると相模国に脱出し、三浦荘を治めることになります。
そのような経緯もあって、頼朝とは連絡を取り合っていたようです。頼朝の挙兵に際しても最初から参加する計画でしたが、雨のために合流することができませんでした。この頃には義明は89歳という高齢になっています。
三浦義澄(1127~1200)
佐藤B作さんが演じている三浦義明の次男ですが、長男の義宗が39歳で亡くなったため、家督を継ぐことになります。義明亡き後の三浦一族の中心人物です。鎌倉幕府の中で重要な地位を占めることになります。
和田義盛(1147~1213)
三浦義明の長男であった義宗の息子です。横田英司さんが演じています。和田氏を称して、今後活躍することになるのです。
安房に脱出した頼朝に自分を侍所の別当にしてくれと頼んだのがこの人です。こんな事情ですから、和田氏とはいえ三浦一族と考えられるのです。
三浦義村(不詳~1239)
山本耕史さんが演じていますね。三浦義澄の長男として活躍することになります。ちょうど北条義時と同じような立ち位置になるのです。
石橋山の戦いの後の三浦一族の動き
三浦一族は源頼朝に合流すべく三浦半島を出発しますが途中の酒匂川の増水でどうしても川を渡ることができませんでした。そのうち頼朝の敗北を知らされ、三浦半島まで引き上げることになります。
由比ガ浜の戦い
8月24日、三浦一族が引き返すときに、畠山重忠の軍勢と遭遇します。しかしお互いに坂東で知り合いでしたので無駄な戦いはお互いに本意ではなかったようで、双方やり過ごすことになりました。
そこに事情を知らない和田義盛の弟の義茂が畠山に撃ちかかったおかげで戦闘になっていしまいます。和田義重はこの戦闘で亡くなるなど犠牲は出たものの、停戦が成立して双方が兵を引くことができました。
衣笠城の戦い
8月26日、畠山重忠、河越重頼、江戸重長の平家方が三浦半島の一族の居城である衣笠城を攻撃することになります。
三浦氏は合戦続きであったことから消耗が激しく、衣笠城を支えきれないとして脱出することになります。
その時、当主であった、三浦義明は源氏累代の家人として源氏の再興に立ち会うことができて本望であること、今は年を取って足手まといとなることから、今後は子孫の手柄としたいと居残ることとし、討ち死にすることとなった。
三浦一族は船によって脱出して、かねてから勢力圏にあった安房国に脱出することになり、頼朝と合流することになったのです。
この三浦義明の最後は源氏武士の鑑として称賛されることになります。特に徳川家は源氏の末裔を称していますから、この例に倣うように求められたといわれています。
「鎌倉殿の13人」で三浦一族が源頼朝を支えた理由とその後のまとめ
三浦一族は源氏に対して一貫して忠誠を尽くしていました。最初の石橋山の戦いからの参加者として、安房国で合流した後は、頼朝と行動しております。
この間、北条時政、義時も「鎌倉殿の13人」では頼朝と行動を共にしたことになっていますが、別の資料では北条氏時政、義時は甲斐に逃れていたとされていますので、その意味では北条氏よりも存在感があったことと思います。
しかしながら、鎌倉幕府成立後の様々な内部抗争で三浦一族もだんだん北条氏に圧倒されていくことになるのです。
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