鎌倉殿の13人・第15回ネタバレ・木曽義仲は水島の戦いで凋落へ

鎌倉殿の13人

木曽義仲は寿永2年(1183年)5月に倶利伽羅峠の戦いで大勝し、その勢いで上洛します。京の人たちも当初大歓迎でしたが、直ぐに義仲とトラブルが生じ、後白河法皇は義仲に平家討伐を命じることになります。そして10月備中国水島で平家と対戦することになります。その結果は。

木曽義仲の上洛

木曽義仲は寿永2年(1183年)7月28日に京に入り、京の警護を任されることになります。また、8月10日には従五位の下・備後守に任ぜられ、後に伊予守に転じます。

この頃朝日将軍という称号を得たとも言われています。この頃が義仲にとっては絶頂期だったのです。

ドラマにもありましたように、義仲にはブレインが不足していたのでしょう。京のしきたり、特に貴族階級のしきたりに不慣れなため、最初は好意的にみられていたものの、やがては見放されることになるのです。

特に貴族の専管事項であった皇位継承問題に首をくっ込んだことで、評価が大きく下がることになるのです。そこら辺は大江広元のようなブレインを取り込んである源頼朝に比べて大きな開きがあるのです。

また、養和の大飢饉も義仲には不利な材料でした。京での食糧不足などから、義仲が引き連れた武士たちがたちまち京で狼藉を始めることになり、京の治安を任された義仲の評価はますます下がるばかりでした。

後白河法皇たちにしてみれば、平家追討は義仲の軍勢を京から追い払う良い口実だったと思われます。こうして義仲たちは9月には播磨国に出陣することになるのです。義仲は何とかして平家を追討して戦果をあげなければならない立場に追いやられたのです。

水島の戦い

その頃の平家は8月には大宰府まで落ち延びここで再起を図ろうとしますが、豊後の緒方惟義に追い払われて鎮西を根拠とすることができなくなります。そして、9月にやっとのことで讃岐国屋島を根城にして、体制を整えることができるようになるのです。

木曽義仲の進軍

備中国水島は屋島の対岸にあります。義仲の軍勢はその水島まで進軍して、そこから対岸の屋島に渡る作戦でした。義仲は播磨にとどまり、水島に進軍したのは足利義清、海野幸広の軍勢になるわけです。

平知盛、平重衡、平教経、平通盛の軍勢が出陣

対岸の屋島から平家の軍勢が出陣します。平家側は平知盛、平重衡、平教経、平通盛ですから、ベストメンバーをそろえたと言えるでしょう。

10月1日になります。源氏側は横一列に船を並べて押していくスタイルを取ります。平家方は源氏の動きを見て退くと見せて、側面から新たな船隊を繰り出す戦法を取ることになります。やはり船の戦は平家の方が一日の長があったようです。

しかも平家は船と船の間に板を渡らせて、船の安定を図ったうえで、矢を射かけます。このような戦法上の工夫も功を奏したようです。また、船には馬を装備させて岸に近づいた時に馬に乗って上陸する用意もしておりました。

更にここで面白いことが起こります。この戦いの最中に皆既日食、金環食が起こることになるのです。平家方は、京にあって暦を作成する仕事も行っていたことから、当日に日食が起こることを予想していたそうです。

驚いたのは源氏方です。突然起こった日食によって源氏方は大変な混乱に陥ることなるのです。なんかよくあるアドベンチャー物の映画のようですね。もしくはインカ帝国に乗り込んだスペインのコルテスのようだったかもしれません。

これらのことにもより、戦いは平家の大勝となります。この戦いで義仲方は大将の足利義清、海野幸広を失ったほか、足利義長、高梨高信、仁科盛家を失い壊滅状態になります。義仲は兵を引き上げて京へ戻るしかありませんでした。

これによって義仲の勢力は大きく減退し、京の中で活動するぐらいの能力しかなくなってしまいます。西から来る平家、東から来る源氏の軍勢に対抗するだけの勢力をなくしてしまうのです。

倶利伽羅峠の戦いから僅か半年で木曽義仲は逆に追い詰められてしまうのです。もはや自分の本拠地に戻ろうとしても、義経軍は近江まで来ていますので、袋小路に閉じ込められたようなものです。この事から、京に籠って後白河法皇を強制的でも味方につけて対抗するしかなかったのです。

木曽義仲にとっては養和の大飢饉がなければ京に入った後も安定して京を収めることができたでしょうし、何にもまして京の事情に通じたブレインが居れば、後白河上皇に取り入ってそれなりの関係を気づくことができたのにと悔やまれます。

この点は、頼朝の読みと状況は良かったようです。坂東の御家人が坂東を離れることに難色を示したことが幸いしていたようです。早い時期に頼朝が上洛していたら、同じような状況に見舞われた可能性があったのだと思います。そういう意味では運は頼朝にあったと言えるでしょう。

木曽義仲は水島の戦いで凋落へのまとめ

木曽義仲は僅か半年で絶頂期から転落してしまいます。背景には養和の大飢饉があったものの、優秀なブレインに恵まれなかった不幸も重なったことでしょう。

義仲の上洛によって焦った頼朝も、実は早い段階で上洛したかったのですが、坂東の御家人が自分の領地の保全、飢饉への対応で渋ったのも結果としては、頼朝に幸いしたのです。

この戦いによって平家は備中に足掛かりを確保し、東に向かって進行していき一の谷まで勢力範囲を広げることになりました。これによって平家側にも失地回復の可能性が出てきたのですが。

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