平清盛の兄弟、息子は平家物語の中心人物ですが、治承・寿永の乱の過程で兄弟5人、息子8人の内、12人までが亡くなっています。
清盛の弟の家盛、嫡男の重盛が病没していますが、後の10人は総て戦死又は捕らえられて斬首ということになります。ところが、この中で唯一生き残ったのが平頼盛です。どんな人なのかまた生き残った原因を探っていきます。
平頼盛とは?彼の家族と出自を紹介します
平頼盛は平忠盛の五男として長承2年(1133年)に生まれます。平清盛からすれば4人下の弟ということになります。年齢差にすれば15歳程度だったと言われています。
母親は藤原宗兼の娘宗子で通称池禅尼と言われている方です。池禅尼の息子は次男の家盛と五男の頼盛だけです。
当初は次男の家盛が正室である池禅尼の位が高いため、長男の清盛に替わって嫡子となる可能性もあったのですが、20歳代半ばで病死してしまいます。
頼盛は正室の唯一の息子として優遇され、五男ではありますが嫡子の清盛に次ぐ位についていたのです。
平頼盛の保元・平治の乱での活躍
保元元年(1156年)の保元の乱において重要な働きをしたのが、実はこの池禅尼なのです。平家の勢力が上皇方天皇方で割れる中、池禅尼は早くから崇徳上皇方の敗北を予測し、平家の勢力が分裂することを回避しようとします。
平治の乱:平頼盛、清盛、重盛の連携
このおかげで、平家は乱による一族の損害を最小限に抑えることができたのです。また、平清盛にとっては、継母とはいえ池禅尼の働きは自らの存立基盤を確かなものしてくれるという大きな恩を感じたはずです。
保元の乱の後、頼盛は兄の清盛の安芸国を知行国とすることになります。頼盛の知行国である常陸国を受け継いだのは兄の経盛です。このように五男とはいえ、母親の影響力もあって清盛に次ぐナンバー2としての地位を占めていたのです。
平治元年(1159年)の平治の乱では清盛を頼盛と清盛の嫡男重盛で支える体制で乱を戦っています。この勝利のおかげで、頼盛は尾張守となっています。
平治の乱の後の源頼朝の処遇
源義朝は尾張国で暗殺されてしまいますが、その息子たちの処遇が問題となります。源頼朝は事実上嫡男となっていましたが、平家方に捕らえられてしまいます。
通説によればこの捕らえられた頼朝が池禅尼の亡くなった家盛に生き写しだったと言われており、懸命の助命活動をしたと言われています。ついには断食まで始めたそうで、一門の大恩のある池禅尼の願いを聞いて平清盛も頼朝の助命を認めたと言われています。
実際は頼朝が使えていた上西門院や母方の実家である熱田神宮大宮司家の圧力によるものと言われています。
しかしながら、その後の、頼朝の行動を見ると、やはり池禅尼のことを一生の恩としていたようです。
平頼盛の勝利と尾張守の地位
こうして平家政権を確立した平清盛ですが、嫡男の重盛の出世をしり目に、弟の頼盛をだんだん遠ざけるようになります。いつものように権力者にとっては自分の直系が成長して来れば、その他に対しては冷遇してくるのですから。
平頼盛は清盛に公然と逆らうわけではありませんが、後白河院に接近することになります。また、頼盛は八条院の乳母の宰相局の娘を妻としていた関係から、八条院とは強いつながりがあったとされています。実は、この関係が頼盛を助けることになるのです。
このようにして清盛との関係も保ちつつ、正三位参議として過ごしていました。清盛から何度か官を解かれたこともありますが、逆らわずに過ごしていたのです。
都落ちからの八条院への隠れ場所
清盛が亡くなり、平家の勢力も倶利伽羅峠の戦いで全く失われてしまいます。寿永2年(1183年)7月の京の防衛にあたり、当時の総帥平宗盛から山科方面の防衛を任されますが、頼盛に何の相談もなく宗盛は都落ちを決めてしまいます。
頼盛にすれば、戦線に捨て置かれたような形になるわけですが、この時に頼盛は後白河法皇を頼ることになるのです。これが、頼盛にとって転機となるわけです。後白河法皇は頼盛に八条院に身を隠すことを勧めます。頼盛は勧めに従い八条院に身を隠すことになるのです。
ここが、運命を分けてしまうところです。平重盛の次男資盛も同じように戦線から離脱が遅れ、しかも、後白河法皇に出入りしていた身分ですが、法皇は面会すら許さなかったと言われています。
資盛は平家一門に従い、最後は壇ノ浦で入水することになるのです。このように頼盛の人脈が功を奏したと考えられるでしょう。
源頼朝との連絡:平頼盛の鎌倉への転機
頼盛は八条院に身を隠しながら、源頼朝と連絡を取っていたようで、その年の10月には京を離れ、鎌倉に向かいます。
鎌倉では頼盛は源頼朝から大歓迎を受けることになります。相模国の国府を頼盛の宿所に充てております。それは池禅尼の息子というだけではなく、後白河法皇、八条院との関係を重視した姿だったのです。
平頼盛の遺産とその後の影響
源頼朝は頼盛が失った荘園を本領安堵するとともに、頼盛は権大納言に、息子の光盛は侍従に、保業は河内守に任ぜられます。
元暦2年(1185年)には東大寺で出家します。また播磨国、備前国の知行権を得ることになります。しかしながら体調を崩して、文治2年(1186年)54歳で亡くなります。
平家物語の生き残り:平頼盛の驚くべき運命と功績のまとめ
平家一門というとすべて壇ノ浦の戦いで絶えたと考えられていますが、平頼盛のように本領を安堵されて生き残った家系もあるのです。
主な原因は池禅尼の息子ということでしょうが、平家の中にあっても一定の距離を保っていたこと、逆に遠ざけられていたのでしょうが、後白河法皇と八条院との関係があったことが運命を分けることになるのです。
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