鎌倉殿の13人・第16回ネタバレ・源義経の本格始動、宇治川の戦い

鎌倉殿の13人

鎌倉殿の13人第16回は「伝説の幕開け」ということで、後の天才的軍略家と言われる源義経の本格的な活動が始まります。

源義経は金砂城の戦いに同行して、攻城戦のプランを示して周りを驚かせたとなっていますが、これはまだフィクションですので、今回からが本当の戦いになります。

木曽義仲攻めの宇治川の戦いから義仲の滅亡、そして、平家との一の谷の戦いに繋がっていきます。

宇治川の戦い

寿永2年(1183年)閏10月源頼朝の命を受けて源義経は木曽義仲を討つべく鎌倉を出発します。11月には近江国に到達することになりますが、その時に京では大変なことが起こってしまいます。

木曽義仲が八方塞がりになり、法住寺合戦により、後白河法皇を幽閉し、事実上のクーデターを成功させるのです。義仲はこのクーデターにより官軍としての地位と、諸勢力の結集を図って東から来る源氏と西の平家に対抗しようとしたのですが、義仲の軍勢は増えませんでした。

むしろ法皇の幽閉は貴族、武士たちの反発を招いてしまうのです。そうなってくると義仲の選択肢のベストは法皇を引き連れて北陸道から信濃に引き返すことでした。

その他に法皇の仲介で平家と和睦を結ぶ。源氏と和睦を結ぶという選択肢もあったでしょうが。和睦についてはうまくいかなかったようです。

宇治川の戦い

木曽義仲は源義経の軍勢が近江国まで来ていることは把握していましたが、その軍勢が高々1千ぐらいと知らされていたようです。それもあって京に留まり抗戦する決意を固めたと言われています。

確かに義経の先遣隊は1千程度でしたが、その後に範頼率いる本隊が来ることになっていました。

義仲の状況判断の見誤りか源氏が偽情報を流して、義仲の逃亡を防いだかどちらかだと思います。ドラマ的には義経が偽情報を撒いたとしたほうがおもしろいでしょうが。

寿永3年(1184年)正月になると源氏の兵は数万のレベルということが判明します。義経率いる搦め手は宇治川から、範頼の本隊は瀬田方面から攻めることになります。

こうなると義仲も10倍をはるかに超える相手と戦うことになりますので、もはや勝負はあったと考えることになります。正確に言えば義経側2万5千に対して、宇治を守るのは根井行親、盾親忠の3百騎ですから、最初から勝負になりません。しかも、今回は京に袋のネズミ状態ですから。やる前から分かっていたと考えるしかありません。

宇治川の先陣争い

戦いそのものは1対100ですから、一方的なので解説は不要です。この戦いで有名なのは宇治川の先陣争いです。

主役の一人は梶原景季でこれは梶原景時の長男にあたる人です。出陣にあたって頼朝に馬をもらいに行きます。頼朝には生食(いけずき)という名馬がいたので、それを所望します。生食はなんでも噛みつくという気性の荒いことから名づけられたようです。

頼朝は生食は惜しんで、磨墨(するすみ)という名馬を渡すことになるのです。この馬は色が真っ黒であるから名付けられたようです。

その後、同じように佐々木高綱が頼朝に生食を所望しに出かけます。佐々木高綱の申し出を頼朝は断り切れず、生食を渡してしまうのです。

京に向かう途中で、梶原景季は佐々木高綱が生食に乗っていることを見つけて問いただします。佐々木高綱は事情を知っていますからまさか頼朝から貰ったとは言えず、とっさに、生食は頼朝の厩から盗んできたと申し開きをして、何とかことを治めたと言われています。

宇治川の戦いが始まるとこの二人が先陣を争って川を渡ることになります。最初は梶原景季の磨墨がリードしていましたが、佐々木高綱は生食を貰った手前、負けるわけにはいきません。

そこで梶原景季に向かって馬の腹帯が緩んでいるので気を付けろと忠告しますが、景季がそれを検めている間に、先陣を切ってしまいます。こうして佐々木高綱が一番乗りを勝ち取ったのでした。

木曽義仲の最期

この宇治川の戦いには法皇を守っていた木曽義仲も出陣しますが、たちまち義経に追い払われます。

源義経は後白河法皇を確保

義経はその勢いで院御所に押し寄せて後白河法皇の確保に成功します。

結果論ですが、木曽義仲が宇治川に出陣しようがしまいが結果には影響なかったはずです。むしろ冷静に考えればその間の時間を利用して法皇を連れて逃げ出せば最後のチャンスはあったのかもしれません。

返す返すも惜しまれるところです。逆に源義経が法皇の確保を第一に考えたのはこの戦いの本質を理解しているということです。そういう意味での戦いの天才たるところでしょう。

木曽義仲の最期

もはや法王も抑えられてしまっては、木磯義仲も手立てがありません。今井兼平が守る瀬田方面に逃げますが、たちまち部下は次々と討たれていきます。

もはや数騎しか残らない状態になっても、巴御前と今井兼平はつき従っています。しかし木曽義仲は最後まで女性を連れて討ち死にしたかと言われるわけにはいかないと、最後は巴御前と別れることになるのです。

巴御前は最後の戦をご覧に入れようと、源氏の二人の武将の首をへし折ったと言われていますから相当の怪力だったのでしょう。そしてその後行方知れずになります。

木曽義仲は今の大津市の粟津に落ち延び松原で自害しようとしますが、馬が泥沼に足を取られている間に、矢で射殺されます。今井兼平はそれを見て刀を加えて馬から落ちて自害します。

源義経の本格始動、宇治川の戦いのまとめ

このようにして木曽義仲は入京して朝日大将軍と言われた絶頂期から僅か半年にして滅亡してしまいます。平家物語の盛者必衰のそのものという感じでしたが、どこに原因があったのでしょうか。

木曽義仲には朝廷、京での活動を支えるブレインがいなかったのが最大の敗因だと考えています。もしも、それなりのブレインがいて義仲が大事にして、特に後白河法皇と良い関係を持つようになれば、返って頼朝にとっては脅威になったでしょう。

もっとも、ブレインはいたのかもしれませんが、義仲と義仲の軍団が全く相手にしなかったかもしれません。それであれば仕方がないと思いますが。

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