鎌倉殿の13人第23回は「義時の生きる道」です。妻の八重さんも事故で無くなってしまいましたが、世の中は次々と動いていきます。
この回では曽我兄弟の仇討という有名な事件が紹介されます。戦前は赤穂浪士の討ち入り、伊賀越えの仇討と並ぶ三大仇討事件として有名でしたが、戦後教育によって姿を消した事件です。今回はこの概要を説明します。
曽我兄弟の仇討事件とは
曽我兄弟の仇討事件とは建久4年5月28日(1193年6月28日)に起こった仇討事件です。
源頼朝が富士野で行った大規模な巻狩りに参加した工藤祐経が曽我祐成(やすなり)と曽我時致(ときむね)に父親の敵として討ち取られた事件です。この時祐成は22歳、時致は20歳でした。
工藤祐経が曽我兄弟の父の敵となったいきさつ
この事件にさかのぼること17年前の安元2年(1176年)に兄弟の父である河津祐泰が工藤祐経の郎党に矢で射殺されています。
この事件と同じように伊豆国での巻狩りの際の事件と言われています。本来は河津祐泰を狙ったのではなく、祐泰の父である伊東祐親を狙ったのですが、矢が傍にいた祐泰に中ってしまったのが実情です。
祐泰の妻であり、兄弟の母は相模国曽我荘の領主である曽我祐信に兄弟を連れて嫁ぐことになるのです。ここで兄弟は河津から曽我に苗字を変えてしまうのです。
曽我祐信は北条時政の庇護の下にあったので源頼朝に従っていたことになるのです。そして、兄弟は頼朝の主宰する巻狩りに参加することができたのです。こんなことから仇討には絶好の機会と考えていたことでしょう。
仇討事件の実際は
富士の巻狩りは建久4年(1193年)5月16日から始まっていましたが、事件は28日におこります。
曽我兄弟は機会を狙っていましたが、ついに工藤祐経が泊まっていた富士野の神野の旅館に押しかけます。そして工藤祐経を討ち取ります。祐経の酒の相手をしていた王藤内も一緒に討たれてしまいます。
こんなことが突然起こるわけですから、旅館は大騒ぎになってしまいます。頼朝の御家人が押し掛けて、曽我兄弟と斬り合いになります。兄の祐成はその中で討たれてしまいます。弟の時致は取り押さえられてしまいます。
翌日、頼朝の尋問が始まります。時致の態度が立派であったことから事の仔細を了解した頼朝は時致を救おうとしますが、祐経の子の訴えにより、罪は罪として斬られることになります。残されたものとしては当然の要求でしょう。
その後、頼朝は富士野から鎌倉に戻る際に相模国曽我荘の年貢を免除し、曽我兄弟の墓前を弔うように命じたと言われています。
ただ、曽我兄弟のこの襲撃事件は単に仇の工藤祐経を狙っただけでなく、頼朝にまで襲撃した様子があるのです。
もっとも工藤祐経が伊東祐親を狙った背景には源頼朝がいるとも言われていましたので、曽我兄弟が頼朝をも仇討の対象としていたかもしれません。
何しろ、伊東祐親は頼朝の子供を殺害していますから、工藤祐経に命じた可能性もあるのです。。
更には曽我兄弟の背景に頼朝襲撃の黒幕が居たのではないかとも言われています。
【今日は何の日】
建久4年5月28日、曽我十郎祐成・五郎時致兄弟は頼朝が行った富士の巻狩に乗じ、父の仇である工藤祐経に夜襲をかけ、本懐を遂げました。その様子を描いた『曽我物語図屏風』を当館では2組所蔵しています。 #鎌倉殿の13人 でも曽我兄弟と思しき人物が・・・・・今後の展開に期待です! pic.twitter.com/hLw8HdgnJw— 山梨県立博物館 (@kaiseum_ypm) May 28, 2022
曽我兄弟の仇討事件の背景
これまでの説明では工藤祐経が曽我兄弟の父の仇として討たれる仇討事件と考えられるでしょう。悪役は祐経ということでわかりやすいのです。
しかし、実は祐経が伊東祐親を狙ったのも立派な理由があったのです。結果としては伊東祐親の身代わりに河津祐泰が亡くなってしまったのですが。
伊東祐親は工藤祐経の叔父になるのです。そして伊東祐親は本来は河津莊を支配していました。また、工藤祐経は伊東荘を支配していました。更には工藤祐経は伊東祐親の娘万劫御前を妻として迎えていたのです。ここまではとても美しい関係だったのです。
ところが工藤祐経が大番で京に滞在中に、伊東祐親はその所領である伊東荘を横領してしまいます。また、妻の万劫御前を奪って別の男に嫁がせてしまうのです。
所領を奪われた祐経は訴訟を繰り返しますが、伊東祐親の工作によってすべて妨害されてしまうのです。そんなことから、工藤祐経が伊東祐親をひどく恨んでいたのです。
伊東祐親も自分の娘を嫁がせたのなら孫の代になれば関係は良くなるのに、なんということをしたのでしょう。この説明によれば、工藤祐経もそれほどの悪人ではなく、むしろ被害者であることがわかるでしょう。
伊東祐親が工藤祐経の所領を奪う立派な理由
これで、悪人は伊東祐親ということになるのですが、祐親にもそれなりの立派な理由があるのです。
この原点は祐親の祖父である工藤祐隆にまでさかのぼるのです。工藤祐隆は伊東荘、河津荘を支配する大地主だったのです。
工藤祐隆には嫡子である工藤祐家がいたのですが、早世してしまいます。そこで、後妻の連れ子である娘の子を工藤祐継として本領である伊東荘を相続させてしまうのです。その祐継の嫡子が工藤祐経なのです。
伊東祐親は工藤祐家の嫡子になるのですが、工藤家の嫡孫であるにもかかわらず本領の伊東荘を相続することができず、後妻の連れ子の孫に所領を奪われた形になるのです。
従って伊東祐親にとっては本来の嫡孫が工藤家の本領を相続するのが当然と考えていたのです。
ここら辺の経緯については、次の記事で詳しく解説してありますので、ご覧いただけたら幸いです。
曽我兄弟の仇討事件のまとめ
曽我兄弟の仇討事件についての背景を解説してみました。
曽我兄弟にとっては工藤祐経は父の仇であっても単純に悪役ではないのです。工藤祐経にとっては伊東祐親は所領を簒奪され、妻までも奪われた相手になるのです。
更にさかのぼれば、工藤祐親にとっては、工藤祐経の父親は工藤家にとって血縁の無い連れ子の息子ですので、工藤家の本領を奪われたということになります。
このように一旦掛け違えた恨みが次から次へと悲劇を生むことになるのです。本当に恨みというもの、特に土地を巡る争いは怖いものです。
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