源頼朝は配流された伊豆でどんな暮らしをしていたか?

鎌倉殿の13人

鎌倉殿の13人」では平治の乱で捕らえられ伊豆に配流になった源頼朝から展開します。その後、13歳から20年にわたり伊豆で流人として生活しているわけです。

ちょうど大人になっていく頼朝はどんな人でどのような生活をしていたのでしょうか、伊東祐親、北条時政という監視役とはどんな関係にあったのでしょう。北条政子とはどのような出会いであったのでしょう。そんなところを解説します。

伊豆での源頼朝を支えたのは比企尼

源頼朝の生活は誰が支えていたのでしょうか。当時の流人は犯罪者ですから、現在のように黙って食事が出るわけでもありませんし、三食昼寝付きというわけにはいかないのです。

死なない程度のことはしてくれていますが、それではこんな13歳の子供が育つわけがありません。

源頼朝には比企尼という乳母がいました。この当時乳母というのは単なるお手伝いさんではなく、成人するまでその一門が支える習慣となっていたのです。

比企尼はちょうどその頃武蔵国比企郡の代官になった夫とともに領地に住んでおります。

比企尼の長女丹後内侍は関東の安達盛長に嫁します。安達は後に頼朝の側近となります。次女川越尼は武蔵国の豪族川越重頼に嫁ぎます。

三女は伊豆国伊東祐清に嫁ぎます。この祐清は頼朝の監視役の伊東祐親の二男です。比企尼は娘婿たちに頼朝への奉仕を命じたとも言われています。

このため、何かと頼朝には力強い味方がそばにいたのです。それにしても平家の監視はそれだけ緩かったのでしょう。相手にしていなかったと言えばそれまでですが。

それだけではなく比企郡から毎年米を送り続けたと言われています。何だ、米かと言わないでください。これは生活費全般を面倒見ているという意味ですから。

源頼朝の伊豆の暮らしはどのようだったか

源頼朝は伊豆に暮らすことになります。1160年(保元2年)のこととされています。

源頼朝はどこで暮らしていたのか

通説では、場所は現在の伊豆の国市にある蛭ヶ小島とされていますが、果たしてどうでしょうか。

この頃の、伊豆の豪族の勢力を考えてみる必要があります。この頃の伊豆の豪族としては、伊東に勢力を張っている、伊東祐親(すけちか)です。

こちらの方は300騎ぐらいいたようですから、相当のものです。しかも、平清盛の覚えも良いようですので、普通はこちらと考えたほうが筋が通っています。

後に舅になるので有名な北条時政ですが、その頃の勢力は僅か30騎ぐらいでしかありません。こちらの方は、蛭ヶ小島から1㎞程離れたところに住んでいます。しかも、伊東祐親の娘を妻としていました。

こうなると、頼朝は、蛭ヶ小島から東側に山を越えてもう少し海岸に近いところに住んでいたと考える方が筋が通っています。蛭ヶ小島に住むのであれば伊東祐親が北条時政に監視をゆだねて住んでいたと考えられます。

この2か所の可能性があるのですが、後に解説する八重姫の事件も考える必要があります。

源頼朝はどんなことをして日々を送っていたのか

公式的には流人の身ですから、精々やることと言えば一門の供養ぐらいです。平治の乱では父親義朝、兄の義平、朝長を亡くしていますから、毎日読経をしていたとも言われています。

また、命を助けられた池禅尼からは早く出家しなさいとも言われています。しかし頼朝は出家には消極的だったようです。何れは再興を期していたのでしょう。

流人であっても、近隣を外出することは自由ですから、武芸の稽古、狩りなども励んだことと思われます。

なぜなら、後日の石橋山の戦いではかなり数を弓で倒したようですし、後に坂東の武者たちを部下にするためには、それ相当の武術の腕がなければ誰もついてきません。東国では出自だけでは通用しないのです。

源頼朝の女性関係は

それから女性関係です。ちょうど13歳からの20年間ですからいろいろあるはずです。源頼朝は伊豆国では見かけないほどの高貴な身分ですので、しかも色白で背も当時としては168㎝と言われていますから、それなりに女性には評判が高かったことでしょう。

頼朝は13歳まで京で暮らしていましたので、京で身に着けたやり方で、あちこちに手を出したのではないでしょうか。どこにも出かけられますから。東国のやり方とは少し違っていたかもしれませんが。

しかし、平氏の世ですから、親にしてみれば積極的に源頼朝を婿にしようなどとは誰も考えていなかったようです。政略結婚が主流の世界ですので、確実に役に立つところに嫁がせるのが、親の考えでしょう。

源頼朝は八重姫との間に千鶴丸という子供をもうける

1167年(仁安2年)頃、伊東祐親が京にいる間に、伊東祐親の三女の八重姫と関係をもち、千鶴丸が生まれたとも言われています。やっぱり頼朝は京の貴公子ですから、こんなところはまめだったのでしょう。

伊東祐親は3年後に帰国した時、このことを激怒し、千鶴丸を川に投げ込んで殺したとも言われています。八重姫は別のところに嫁がされます。とても激しいですよね。そして頼朝を襲撃しようとします。

ここで先に紹介した、次男の伊藤祐清が頼朝に知らせて、頼朝は伊豆山神社とも走湯権現に逃げ込んで、一命をとりとめたとも言われています。

それにしても、伊東祐親の行動は変ですよね。貴公子があちこちの豪族の娘に言い寄ることは、この当時ではそれほど珍しいことではなかったはずですが、東国では少し事情が違っていたのでしょう。

源氏の家系では平家の家臣としては申し訳ないという立場もありますが、それはそれで仕方がないと思うのが普通なのですが、本当はどうだったのでしょう。

源頼朝は北条政子とも関係をもつことに

もう一つ有力な説があるのです。どうやら、頼朝は八重姫と北条政子の両方を天秤にかけていた様子でもあるのです。

北条政子の父親の北条時政は伊東祐親の婿になっていることから、伊東祐親が自分の面子をつぶされたとみて怒ったというのが真相に近いような気がします。

何れにしろ、伊東の近くから熱海の傍の伊豆山神社、走湯権現に匿われて、何とかしのいで、その後に北条時政の傍の蛭ヶ小島に移り住んだのではないでしょうか。

北条時政も頼朝と政子の縁組は反対で、別の男に嫁がせようとするのですが、政子が脱走して頼朝の下に駆けつけたと言われています。

やはり、若い時から行動力があったようですね。伊東家の八重姫とはここらで命運を分けたようです。

源頼朝は配流された伊豆でどんな暮らしていたのかのまとめ

源頼朝の伊豆での配流時代の生活を調べてみました。京に比べれば伊豆国ははるかに僻地ですし、国としての地力もあまりないので、ずいぶん寂しいところだったのではないでしょうか。

現代で考えれば国外追放にも似た処分なのでしょう。

しかしながら、武蔵国に乳母がいて頼朝の生活を支えているのには驚きですよね。しかも乳母の娘婿がごく傍で仕えているのですから。

そんなことから、頼朝の生活は案外気楽な生活だったのかもしれません。女性関係では、京とは勝手が違って危うく命を落とすことになりかねませんでしたが。

それでも平家の世が長続きしたなら、地方豪族の間に入って幸せな生涯を送っていたかもしれません。

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