源義朝の息子の頼朝、希義、全成、義円、義経は何故生き延びられた

鎌倉殿の13人

平治の乱で敗れた源義朝の息子のうち、源氏側で活躍した義平は処刑朝長は負傷後死亡義門は戦死しています。

平清盛は頼朝以下、希義、全成、義円、義経は捕えたのちに、配流または寺に預けています。幼かったということも理由でしょうが、どうして命を取られなかったのでしょうか。この理由について考えたいと思います。

平清盛が源頼朝、希義、全成、義円、義経を助命した通説は

1160年(永歴元年)源頼朝がとらえられたとき、平清盛の父親・平忠盛の妻、清盛にとっては継母にあたる池禅尼が助命嘆願したと言われています。

理由としては、池禅尼の早世した息子家盛に頼朝が生き写しであったというものです。池禅尼が断食までして助命を願ったたため、清盛も折れて減刑したと言われています。

また、池禅尼は平治の乱に先立つ1156年(保元元年)の保元の乱の勃発にさいしても、上皇方の敗北を予測して、自分の息子の頼盛に清盛に協力するよう命じたそうです。

これにより一族の分裂を避けることができたと言われています。このことから平家一門の中でも重きを置いていたようです。

確かに池禅尼の果たした役割は大きく、源頼朝はその恩を生涯忘れることはなかったと言われています。

通説はこれで一通り筋が通っているのですが、本当にこれだけでしょうか。もう少し原因を探ってみたいと思います。

平清盛が源頼朝、希義、全成、義円、義経を助命した本当の理由は

いくら、池禅尼が立派な方でも、単なる助命嘆願で済む問題ではないのです。ここには、その頃の事情を調べる必要があります。

平治の乱の本質を考えると少しわかってきます

平治の乱は其の3年前の保元の乱で勝利者側に残った平清盛と源義朝との対立と考えることができます。同じ勝利者側でしたが、平清盛と源義朝との間では恩賞に格差がついてしまいました。そこに貴族側がついて話がややこしくなるのです。

平清盛についたのが、藤原信西でした。この人がその時の実力者でしたので、恩賞の差配もしていたようです。この信西と平清盛の関係が親しくなります。この信西に出世を邪魔された恨みをいだいていたのが、藤原信頼でした。

恩賞にしろ、出世にしろ恨みとは怖いものです。

源義朝と藤原信頼は、1159年に平清盛が京を離れたときに、藤原信西を襲います。そして、天皇、上皇を幽閉して、自分の下に置きます。これで、大勢は決したと思うでしょう。

ところが京に帰ってきた平清盛は、天皇、上皇を奪い返してしまいます。また、源氏方の寝返りもあり、藤原信頼は斬首されます。源義朝は尾張まで逃げ延びますが、そこで裏切りに会い殺害されてしまいます。

平治の乱のことを長々と書いてきましたが、この乱の本質は、有力者同士の争いだということです。同じ権力闘争であっても、3年前の保元の乱のように天皇、上皇に弓を引くのと、有力者間の内輪もめとは違うものになるのです。

確かに、この戦いで、天皇、上皇は幽閉されますが、これは、天皇、上皇を自分の味方につけるためののもので、危害を加えるものではないのです。

一族皆殺しにするためには、明らかに天皇、朝廷に敵対する行為が必要なのです。

このように単に有力者同士の争いでは、騒乱の当事者は死を免れませんが、一族皆殺しのようなことにもってくためには相当の理由が必要なのです。

長男の源頼朝の出自がものを言うことになるのです

源頼朝の父親は源義朝ですが、母親は尾張国熱田神宮の大宮司である藤原季範(すえのり)の娘の由良御前です。

藤原季範は熱田神宮の大宮司と言っても京で生活することが多く、従四位の位ももらっている立派な貴族です。

藤原末範は崇徳・後白河天皇の母である待賢門院や後白河天皇の皇后となった上西門院に娘たちを仕えさせています。そうなると、源頼朝の叔母たちが京の政界に多くいるということです。

さすがに藤原季範は亡くなっていましたが、この関係者たちが助命活動をしたことは十分に想像できます。しかも、池禅尼は待賢門院近臣家の出身ですから、働きかけは十分あったということです。

同様に、頼朝自身も平治の乱の直前には上西門院の蔵人、二条天皇の蔵人にもなっています。そういうことから、武士と言っても立派な貴族でもあるのです。

つまり、武士と言ってもこの頃の武士は、いわゆる戦国時代の武士とは相当に異なっています。武士貴族という名前で表現されますが。ほとんどは貴族と考えてよいのです。

このような事情があったおかげで、由良御前の子となる、頼朝、希義、坊門姫は死を免れることができたと考えられます。

常盤御前の子である全成、義円、義経はどうだったのか

常盤御前の子である全成(今若)、義円(乙若)、義経(牛若)は同じように逃亡中に母とともに捕らえられたとされています。

通説でいえば、子供たちの命と引き換えに常盤御前が清盛の妾になることになったと言われています。

常盤御前は貴族の出身とは言えませんでしたので、たいした助命嘆願はなかったでしょう。従ってもし、常盤御前の子供、今若、乙若、牛若の処分が先になされたならば、命が危うかったかも知れません。

しかしながら、実際には、頼朝たちの処分が決定した後でしたので、たぶん子供たちは死罪にはならなかったであろうと思われます。

また、その出自を考えれば、全成、義円、義経は頼朝たちに比べれば重要度は遥かに低くなりますので、ほとんど考慮の外だったのではないでしょうか。従って監視付きの配流というよりは、寺に預けてしまうという処分になったことでしょう。

源義朝の息子の頼朝たちは何故生き延びられたかのまとめ

平治の乱で敗れた源義朝の息子たちは、戦闘で戦った後処刑された義平、負傷して亡くなった朝長、匿われた範頼を除いては、平清盛の前に連れてこられるわけです。

ここで生死を決めるのは、やはり政治力です。頼朝を取り巻く政治力がこの処分をしにくくしたことは十分考えられます。

また、平治の乱が天皇、上皇を巻き込んだ争奪戦になったものの、彼らには一切危害を加える意図がなかった戦いであったということも大きかったようです。

そんなことで、一族を根絶やしにする大義が見つからなかったのです。さすがに戦闘の当事者の処分は免れなかったようですが。

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