いよいよ大河ドラマ鎌倉殿の13人が始まります。一般に主人公の北条義時も有名ではありません。北条家で教科書に出てくるのは北条政子と北条時政ぐらい、そのあとは義時の子供の泰時ぐらいです。それなのに知らない人が13人も出てくると混乱してしまいます。ということで、源頼朝との関係から整理してそれぞれをやさしく解説してみます。
源頼朝とはどんな人でしょうか
基本ココが大切です。源氏の棟梁であった源義朝の嫡男ですが、平治の乱で捕らえられて伊豆に流されます。ここで北条政子と結婚して、旗揚げしたのち、源範頼、義経を遣わせて平家を滅ぼします。武将というよりは政治家としての方が才能豊かだったようです。鎌倉幕府をつくり武士の支配を確立しますが、落馬がもとで死亡します。(生年1147~没年1199)。
北条家の人々と源頼朝との関係から説明します
北条家は伊豆の小豪族でしたが、伊豆に頼朝が流されたとき、北条時政が頼朝の監視役でした。ところが、時政の娘である政子が頼朝と結婚することになり、一挙に頼朝の親族としての地位を確立するのです。
北条時政(1138~1215頼朝より9歳年上)
頼朝の監視役で政子の父親です。頼朝との結婚には反対でしたが、政子が駆け落ちのように頼朝のもとに行ったため、しかたなく認めることになります。
豪族としての勢力は小さいので武力よりも政治力に長けた存在として描かれています。9歳年上ですので舅というよりはお兄さんの感じなのかもしれません。
北条義時(1163~1224頼朝より16歳年下)
時政の二男ですが、長男が頼朝挙兵後の石橋山の戦いで亡くなっていますので、嫡男とされています。
主人公でこの物語のキャッチフレーズとしてはは若武者ですが、不思議なところでいなくなったり、都合の良いところで出てきて行動を起こす存在として描かれるでしょう。「鎌倉殿の13人」の中では明るく描かれていましたね。
鎌倉幕府成立の時で29歳、13人の中では一番若い人です。頼朝より16歳も若いので、まるで子供のような感じでしょうね。ちなみに北条政子は義時の7歳年上です。
頼朝の親戚扱いの人を紹介します
頼朝が伊豆で不自由なく暮らせたのは乳母の比企尼の存在が大きいのです。この人は武蔵国比企郡に居て、頼朝に20年間物心ともに援助をしていました。
比企能員(不詳~1203頼朝と同年代)
頼朝の乳母であった比企尼の甥であり後に養子となります。比企尼の関係もありますから、頼朝も重用にする必要があるようです。
後に頼朝に嫡男頼家が生まれたとき、頼家の乳母父となっており、頼家を通じて権勢ふるうことになるのです。
安達盛長(1135~1200頼朝より12歳年上)
頼朝の乳母である比企尼の長女丹後内侍を妻としています。比企尼の婿になります。このため、頼朝の配流時代から仕えている関係になります。頼朝の私的な部下として最後まで仕えていました。
三善康信(1140~1221頼朝より若干年上)
母が頼朝の乳母の妹であったため、伊豆の頼朝に、京都の情勢を知らせる役目をしていました。以仁王の挙兵の際には、源氏追討の情報をいち早く知らせることもしております。
このため、頼朝から鎌倉に呼ばれ、政務の補佐をするよう頼まれています。問注所の執事(長官)となっております。
二階堂行政(ゆきまさ)(生没年不明、頼朝より若干年上)
源頼朝の母方の父親である尾張国熱田神宮大宮司・藤原季範の妹を母親に持つ貴族です。遠江・駿河などで勢力を持っていた地方貴族と考えられます。
朝廷にも使えたことがあり、政所別当(長官)の大江広元を補佐する政所令となっています。
関東の有力者、豪族を紹介します
関東地方には源氏、平家入り混じって豪族がおりました。頼朝挙兵から参画した者、その後頼朝に従った者など様々です。
梶原景時(1140~1200頼朝より少し年上)
平治の乱で源義朝が亡くなった以降は平家の立場となっていました。石橋山の戦いでは頼朝を打ち破りますが、頼朝が落ち延びるのを見逃したと言われています。
その後は頼朝に従うようになり、御家人の中では筆頭と言われ、侍所の所司という次官の役割についています。
源義経と対立したことで悪役として描かれることが多い人です。
和田義盛(1147~1213頼朝と同年生まれ)
相模国三浦郡の出身となります。三浦一族の支族となります。源頼朝旗揚げから源氏側について支援しています。このため、鎌倉幕府成立後は侍所別当となっています。
三浦義澄(1127~1200頼朝より20歳上)
相模国三浦郡の出身、三浦一族の家督を継ぐことになります。豪族の中でも有力者でしょう。最初から源氏に関わって頼朝を助け、頼朝の宿老となっています。
足立遠元〈生年没年共に不明)
武蔵国足立郡を本拠とする地方豪族です。東京都足立区の由来のようです。
八田知家(1142~1218頼朝より少し年上)
下野宇都宮市の当主宇都宮宗綱の四男ですが、一説では源義朝の落胤とも言われています。そうすると頼朝とは兄弟になってしまいますが。
一貫して源氏についており、頼朝挙兵に早くから参加しています。下野から常陸に勢力を持っていました。
京都及び在郷貴族を紹介します
特段、源頼朝とは血縁関係は見られませんが、鎌倉幕府の行政組織及び、交渉を担った貴族がいました。現代でいえば官僚ですね。
大江広元(1148~1225頼朝ほぼ同年)
始めは朝廷に仕えていたようですが、鎌倉に下って頼朝に仕えた下級貴族です。政所の別当(長官)をつとめています。大江広元の兄が中原親能で頼朝と親しかったことから従ったようです。
中原親能(1143~1209頼朝同年代)
中原広季の実子とも、参議藤原光能の実子だったが妻方の中原広季の養子になったとも言われています。幼い頃相模国の住人に養育された際に、源頼朝の友人となったと言われています。頼朝が挙兵した際、平家の追求を恐れて京を離れて鎌倉に行ったとされています。
鎌倉殿の13人とは誰、源頼朝とはどんな関係のまとめ
13人について、特に源頼朝との関係で整理してみました。こうしてみると、北条家は別として、特に乳母と母方の実家関係がかなりの数入っていることがわかります。
北条家2名、乳母関係で4名、幼なじみ2名という具合ですから、関東の豪族、武辺の者は5名しかいません。そのうち一人も怪しいですからね。こうして整理しておくとわかりやすいと思います。
個別のエピソードはその都度に紹介しますが、とりあえず13人の整理はできたでしょうか。