源頼朝が配流後初めて戦ったのが「石橋山の戦い」です。残念ながら結果は大敗で、頼朝、北条時政、宗時などは各地に落ち延びていくことになります。
しかしながら、実際に頼朝が前線に立って戦いを行ったのは、この戦いが唯一とも言われていますので、貴重な戦いと言えるでしょう。
内容は大きく3つに分かれます。1つ目は山木伊豆国目代の襲撃、2つ目は石橋山の戦い、3つ目は敗走後安房国に落ち延びるまでです。
源頼朝が挙兵するに至った理由は
1180年(治承4年)4月27日源頼朝の叔父である源行家が頼朝の滞在場所である蛭ヶ小島を訪れます。行家は後白河法皇の子の以仁王の令旨を携えて、諸国の源氏の蜂起を促すために、各国を回っていました。
以仁王と源頼政の挙兵は失敗に終わる
実際には5月の以仁王と源頼政の挙兵は失敗に終わり、平家に討たれることになるのです。このため、警戒した平家は各地の源氏の監視、追討を進める動きに転じます。
当然ですよね。扇動者が亡くなっても、各地に火種をばらまいたのですから。この動きを京からも、京にルートを持つ坂東の豪族も知らされ、頼朝自身の身も危なくなる可能性が出てきたのです。
伊豆の国司交代により伊東氏の勢力が拡大
また、源頼政の死亡により、伊豆国の知行国司は源頼政から平時忠となり、山木兼隆が目代として着任します。親平家の伊東氏の勢力が強くなり、工藤氏、北条氏も危機感を強めていったのです。
またその前年、坂東の各地で国司の交代があり、平家方からの圧力により、親源氏の豪族たちも圧迫を受けるようになります。
源頼朝の周辺にも危機が訪れる
つまり、それまでの楊であれば何もなく月日がたっていくのですが。頼朝自身も下手をすれば蜂起する可能性があるので、平家から難癖をつけられて、粛清されてしまう可能性が出てきたのです。この場合いわば追い込まれて、自衛のための蜂起とも言えます。
また、坂東の豪族の中でも親源氏の豪族は圧迫を受けるようになり、反平家として蜂起する可能性も出てきており、源氏が立った時に協力する機運が盛り上がってきたのです。つまり、頼朝に味方する勢力の可能性が出てきたということです。
いくら源氏の再興を祈っていても、このような条件が揃わなければ、挙兵を決意するのはできないのです。それでも相当の決断でしたでしょうが。
山木兼隆襲撃事件
源頼朝は8月17日に挙兵を決めます。最初の標的は伊豆の目代である山木兼隆です。山木兼隆の館と頼朝の館、北条時政の館はそれぞれ1㎞ぐらいしか離れていない距離にあります。
本来は朝駆けで襲撃する予定でしたが、佐々木兄弟の到着が遅れたため、夜討ちに変更することになりました。また、この日は三島大社の祭礼の日に当たり、館の部下たちも祭礼に出かけるものが多く手薄だったようです。
また、余談ですが政子の本来の嫁ぎ先は山木兼隆だったともいわれていますので、なんだか因縁浅からぬ関係ではあったのです。
実は違和感があるのは、この襲撃にも頼朝は参加していないのです。実際の襲撃の実行部隊は北条時政で婿は北条館で結果を待っているだけという状況でした。
ここら辺の感覚はよくわからないのですが、国司目代ぐらいの襲撃には源氏の棟梁が出るほどでもないというのでしょうか。
冷静に考えれば、頼朝直属の兵はいなかったので、頼朝は各頭目に頼むしかなかったと言えるかもしれません。
夜中の襲撃ということで、効果もあったようで山木兼隆は討ち取られてしまいます。
石橋山の戦い
こうして幸先の良いスタートと切ったわけですが、最初の山木館の襲撃はせいぜい数十騎だったことでしょう。
その後、参集する数も増えて300騎ほどにはなったいたのですが、それだけでは伊豆国の支配もできない状況なのです。
このため頼朝軍は東海岸のほうに出て小田原方面を目指して進軍することになります。かねてから相談してあった相模国三浦一族の3千騎を当てにして合流する手はずになっていました。
8月23日に頼朝軍3百騎騎は今の湯河原町まで進軍します。しかしながら三浦軍3千騎は合流するはずだったのが、酒匂川の増水のため川を渡れず、小田原の手前で足止めを食ってしまいます。
石橋山の戦いは頼朝の大敗に終わる
頼朝軍3百の前面に展開するのは相模国大庭景親の3千騎です。そして頼朝軍の後方からは伊東佑親の3百騎が。まさに挟み撃ちの展開です。
数でもダメ、戦術的にもダメということで、頼朝軍は壊滅してしまいます。このときはさすがに頼朝も弓矢をもって戦ったようです。
いずれにしろ24日には山中に逃亡を図ることになります。このときの頼朝が隠れた洞窟が「しとどの窟」と言われ、湯河原町にも真鶴町にも存在しています。
頼朝軍の土肥実平は頼朝一人をかくまうのはできるが、大勢いてはとても逃げられないとして、各人それぞれ逃げるように提案します。北条時政と義時は甲斐国を目指して逃げ延びます。北条宗時も別ルートで甲斐国を目指しますが、途中でい伊藤祐親軍に囲まれ討ち死にします。
梶原景時が頼朝の命を救うことに
ここで有名な話が、梶原景時です。梶原景時は大庭景親の軍にいましたが、洞窟に潜む頼朝を見つけますが、なぜか隠して、別の方向を探すように指示してしまいます。
それでも大庭景親は怪しんで洞窟に入ろうとするのですが、景時は男の意地と言ってこれを阻止したといわれています。
4か月後、頼朝軍が数万の兵となって再来した時、大庭景親は斬られますが、梶原景時は頼朝の御家人となり、御家人の筆頭とまで言われるようになります。
源頼朝と土肥実平は箱根権現にかくまわれたのち、真鶴半島から船で安房国に落ち延びることになります。千葉県鋸南町には頼朝上陸の地の記念碑が立てられています。
源頼朝の初めての戦い「石橋山の戦い」を解説のまとめ
源頼朝の最初でほとんど最後の戦いが石橋山の戦いとなります。
この後の頼朝の行動を見ても、実際に手を下しているのは、配下の親族、御家人ばかりで、なぜか頼朝が前線に出てくることはほとんどないのです。直属の兵がないというのはこういうことなのかなとも思います。
歴代の源氏の棟梁は基本的に前線で戦っていますし、父親の源義朝もそうでしたが、どうして頼朝には直接の部下がいないので、兵を率いて戦うスタイルは取れないのです。
それともそのようなスタイルを嫌ったのかもしれません。あとで余裕ができれば親衛隊を作ることもできたのですので。そういうところが頼朝はいろいろな武将とも一線を画しているような気がします。
ここら辺はもうすこし詳しく調べる必要があるでしょう。