鎌倉殿の13人・第7話ネタバレ。千葉常胤が源頼朝に加勢した理由

鎌倉殿の13人

鎌倉殿の13人で源頼朝は挙兵しますが、石橋山の戦いで大敗して、安房に逃げ込みます。安房で世話をしたのは安西景益ですが、再起するには足りません。

そのため、千葉常胤と上総広常を味方につける必要がありました。どのような理由で千葉常胤は頼朝の再起を助けたかを調べてみました。

千葉常胤は源頼朝の参加要請にどのように応えたか

千葉常胤は下総国における有力な豪族です。同様の上総国の上総広常とは又従兄弟の関係になります。

1180年(治承4年)源頼朝が安房に到着すると安達盛長を使者として千葉常胤に加勢を求めます。9月9日に要請を受けると即座に参加の意思を表明します。

その証として、下総国目代を襲撃して平忠盛の娘婿千田親政を生け捕りにします。このようにして9月17日には頼朝に合流しております。

同様に頼朝に加勢を求められた上総広常に比べれば、勢力は少ないものの遥かに一貫した対応を示したことになります。上総広常はおよそ万という勢力を連れて来たものの、合流したのはずっと遅れています。

また、平治の乱で源義朝を守って戦死した源義隆の息子の頼隆を領地で匿って育てていたことなど、源氏に対しての誠意も見せているわけです。

このように一貫して頼朝に忠誠を示すことによって、その後の鎌倉幕府の中でも枢要な地位を占めることになるのです。

相馬御厨(そうまみくりや)を巡るトラブル

千葉氏の行動と平家、源氏との関係を考える時には相馬御厨の土地問題を知る必要があると考えられるのです。

1124年(天治元年)千葉常胤の父の千葉常重が相馬郡を譲られて相馬郡司となり、6年後に相馬郡布施郷を伊勢神宮に寄進してその土地を管理する下司職となったのです。

御厨というのは皇室、伊勢神宮、下鴨神社の領地を言うそうです。これは下総守によって正式に認められていました。

千葉常重は相馬御厨を取り上げられる

ところが、1136年(保延2年)千葉常重は下総守藤原親通に相馬郡の公田から国庫に納入がないと逮捕・監禁されてしまいます。今でいえば税金滞納ですよね。常重は相馬郷、立花郷を親通に取られてしまうのです。

源義朝が相馬御厨の問題に介入する

更にややこしいのが1143年(康治2年)源義朝がこれに介入してくるのです。常重の義理の兄の常澄の言を利用して、常重から相馬郷を奪い取り、伊勢神宮に寄進してしまうのです。

常重にとっては下総国守と源義朝の両方から巻き上げられた形になります。しかし源義朝の方はこれはあまりにも強圧的であったため、伊勢神宮はこれを認めず、義朝の権利は放棄させられます。意外と義朝も悪いことをしているのですね。

息子の千葉常胤はどのように対処したか

1146年(久安2年)下総国と交渉して、相馬郷を取り戻し、相馬郡司を回復します。そして改めて相馬郷を伊勢神宮に寄進するのです。

源義朝との関係では、常胤は被害者ですが、いつまでも恨んでいるわけにはいかないでしょうから、保元の乱ではあえて義朝の傘下に入ることで、相馬御厨の確保を図ったようなのです。

今度は佐竹義宗が相馬御厨を強奪に

平治の乱で源義朝が亡くなりやれやれというときに、今度は佐竹義宗が藤原親通からの証文を入手して、伊勢神宮に再寄進して認められてしまいます。

常胤は対抗策を図るのですが、敗れてしまうのです。背景には佐竹家は平家一門であったこと、藤原親通の息子である親盛が平重盛の側室の養父となっていて平家との関係も強いことがあったようです。

簡単に言えば以前の源義朝が佐竹義宗に替わっただけです。さすがに今更平家にすり寄るわけにもいかないので、千葉常胤は佐竹義宗とは対立することになります。

常胤にとっては平家政権の世の中ではこの問題は一生解消されないことを悟っていたのです。このために何とかして佐竹氏を打ち破る必要があったのです。

千葉常胤はなぜ源頼朝に加勢したかのまとめ

千葉常胤は頼朝からの加勢要請を受けたときに、そのまま無言のまま何も言わなかったので、息子が問いただしたところ。この挙兵に感激して何も言えなかったと「吾妻鑑」に記載されています。これは、あとの鎌倉政権に寄り添った記述なのです。

千葉氏は保元の乱で源義朝の傘下で戦いましたが、それまでの経緯を考えれば、源氏に肩入れする義理はないのです。むしろ言いがかりをつけてきた源義朝の機嫌を取るために義朝に借りを作ったと考えても良いほどです。

当時の状態では平家に親しい佐竹氏が押さえている限りは、自分たちの領土は取り返せないと考えて、源氏に加担したのではないでしょうか。確かに、佐竹氏は坂東の豪族にとっては脅威であったので、早く排除したかったのだと思います。

11月の富士川の戦いで平家の軍勢が退却した時、そのまま京を目指そうと頼朝は考えたでしょうが、坂東の豪族はこぞって佐竹討伐を要請したことにも表れています。頼朝はそれに従って佐竹討伐を優先したことが、その後の坂東の豪族の結束を固めることになったのだと思います。

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