アニメ平家物語で、高倉天皇が小督の局のところに行く場面が少しだけ紹介されていましたが、気がついた人は少なかったかと思います。この小督にまつわるストーリーは平家物語においても有名な話ですし、平清盛が悪役として描かれている典型的な話なのでご紹介しておきます。
小督とはどんな生まれの人でしょう
小督は1157年(保元2年)の生まれで、本名ははっきりしませんが、桜町中納言と言われた藤原成範の娘になります。藤原成範は藤原信西の3男ですので立派な由緒正しい貴族の生まれです。
本来であれば高倉天皇の中宮になってもおかしくない立場です。
小督は高倉天皇の後宮に入ることに
高倉天皇は当時寵愛していた幼い姫を亡くして悲嘆にくれていたそうです。その時の中宮は平清盛の娘である徳子でした。
徳子は高倉天皇を慰めるため、美貌で琴の名手であった中納言藤原成範の娘を後宮に入れることになります。この娘が小督の局と言われ高倉天皇の寵愛を一身に受けることになります。
平清盛はこの状態を許すことができなく、一抹の不安があったのでしょう。小督を宮中から追い出してしまいます。
平清盛も娘思いなのかどうかわかりませんが、徳子も高倉天皇も立場をわきまえていたので余計な口出しはいらなかったように思われるのですが。小督はその後も難を避けるために嵯峨野に隠れ住むことになります。
高倉天皇はこのことを強く嘆くことになるのです。
高倉天皇の命を受けて源仲国が小督を探しに出かけることに
こんなことがあって高倉天皇はすっかりふさぎ込んでしまいます。ちょうど中秋の名月のことです。高倉天皇が宿直に残っているものを呼び出します。それに答えたのが源仲国です。
源仲国は源と言っても、清和源氏の系統ではありません。宇多源氏の系統と言われていて、ほとんど貴族の系統になるわけです。天皇の身の回りをする腹心のようなものと考えてよいでしょう。
そして、傍に控えると。高倉天皇直々にどうしても小督のことが忘れられなくて探してほしいと頼まれます。頼りはほとんどありません。嵯峨野にいるということと、片折り戸の建物というだけです。
それでも天皇の意向ですから、嵯峨野と言っても大して家もないことから探してまいりますと、御所の馬を駆って嵯峨野に出かけます。
嵯峨野に出かけた源仲国は
そうはいっても仲国は少しだけ当てがありました。小督は琴の名手です。こんな夜には小督が琴を弾けば、仲国はかって小督の琴と笛で合わせたことがあるので、音を聞けばわかる自信があったのです。
それでも広い嵯峨野ですから一つ一つ調べてみてもなかなかそれらしい家に出会わなかったのです。
引き受けたもののだんだん時間がたつにつれて仲国は焦ってきました、そして突然、こんな月の晩には法輪寺にお参りしているかもしれないと、駒を進めます。
そして、微かな琴の音を聞くことができたのです。音を頼りに近づいていきますと、まごうこと無き小督の琴の音なのでした。そして弾いている曲は「想夫恋」という曲です。
確かに高倉天皇を想って弾いていると確信し、仲国は持っていた笛でそれに合わせて吹くのでした。それを聞いた中からは琴の音が止んでしまいます。
ここで少し脱線します。想夫恋は本来は「相府蓮」と言われていて、丞相府の蓮を詠ったのが原曲なのですが、音が同じであることから日本では夫を想う女性を描いた曲として用いられているのです。
源仲国はその家の戸を叩いて、取次を願いますが、相手は、宮中から来るような人とはお付き合いがないのでと引き取ってもらおうとしますが、仲国は強引に中に入ってしまいます。そして小督に取次をお願いすることになるのです。
小督のことですから、いつ清盛の手の者がやってくるかわからなかったので、警戒するのは当然でしょう。そして仲国はそんなこともあろうかと、高倉天皇から文を預かってきてそれを渡します。そうしてやっと信用してもらうことができたのです。
そして、小督を宮中に戻す算段を考えるわけです。小督の気持ちが変わる前に急いで宮中に戻り、車の手配をします。こうして小督はまた宮中に戻ることができたのです。
しかし、小督のことは清盛の耳に入ることを厳に避けるため秘密裏に取り扱っていました。
#平家物語 にちなんだ浮世絵をご紹介。平清盛の娘・徳子が入内したのが高倉天皇。その高倉天皇が寵愛したのが、箏の得意な小督局(こごうのつぼね)です。清盛を恐れて嵯峨野に隠棲した小督局を、高倉天皇の命で源仲国が探すという場面がしばしば描かれます。月岡芳年の作品。※現在展示していません pic.twitter.com/bCOgBd6tAm
— 太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art (@ukiyoeota) January 27, 2022
宮中に戻ってからの小督
このようにして、秘密裏に高倉天皇が小督の下に通う日々が戻ってきたのです。そして、女児まで設けることになりました。
この女児は範子内親王として育ち、その間に平家が滅んだこともあり、境遇はずいぶん改善されています。1195年には准三后待遇、1198年には土御門天皇の准母、皇后の待遇も与えられることになります。母親は気の毒でしたが、子供は幸せに暮らしたようです。
しかしながら、ついに小督の存在が清盛の知るところになります。そして、あろうことか無理やり今の東山区にある清閑寺で出家させられてしまうのです。
その後の小督と高倉天皇
小督の没年は不明ですが、1181年(治承5年)高倉院(高倉上皇)が崩御した際、清閑寺に移されて殯が行われ、火葬の後、法華堂に葬られました。
清閑寺には後清閑寺陵に高倉院陵とされています。また陵の中にも小督局の墓と言われている宝篋印塔が残っています。
平家物語で有名な小督と高倉天皇の悲劇のまとめ
平家物語の一つのエピソードとして描かれている小督と高倉天皇の物語です。小督の没年が不詳ですが、高倉天皇はこの事件から数年後に亡くなっているので、小督の方が長生きしたと想定されます。
そんなことから、高倉天皇の御意志として清閑寺に葬られることを希望したことが断ち切れない愛情の深さを示しているのではないでしょうか。
そして、この物語の伏線となっているのが「想夫恋」です。聞かれたことがない方は是非一度お聞きいただけたらと思います。
現代の演奏ではかなりデフォルメされているので、鎌倉時代の譜による演奏もYouTubeに出ているようですが、このほうがなんとなく素朴で近いイメージがあるように感じます。
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