鎌倉殿の13人・第8回ネタバレ・頼朝に加わった6人の武蔵国武士

鎌倉殿の13人

源頼朝が石橋山の戦いで敗れたのが1180年(治承4年)8月23日。安房国に上陸したのが8月29日千葉常胤が参陣したのが9月17日。上総広常の参陣は9月19日。

これで3万弱の勢力にはなったわけです。3万というのは大軍ですが、平家に対するにはまだ足りません。頼朝はどのように諸豪族を募っていったのでしょう。そして誰が加わっていったのでしょう。

源頼朝隅田川を渡り武蔵国に入る

源頼朝は8月の挙兵に際しても坂東の豪族に加勢の要請をしています。安房に逃れた後も引き続き行っていたでしょう。

やっとその甲斐もあって、千葉常胤、上総広常の参加を得たのですが、鎌倉までの道のりは、武蔵国、相模国を通過する必要があります。

武蔵国との境である隅田川に10月2日に到達したとき、武蔵国の豪族の豊島清元、葛西清重父子、足立遠元が参陣することになります。

これらは、もともと源氏とは関係の深い豪族ですのである程度は読めたのかもしれません。彼らの名前も東京の地名としてまだ残っているのが興味深いですが、どのような人であったか簡単に説明しておきます。

豊島清元(としまきよもと)

代々、源氏の家人ですので、最も参加が読みやすかったと思われます。本人ではないでしょうが、前九年の役、後三年の役にも源義家の配下として参陣しています。

本人は保元の乱でも義朝配下として戦っています。頼朝が鎌倉到着後に御家人となります。

葛西清重(かさいきよしげ)

豊島清元の三男として1161年に生まれます。葛西御厨を所領していたため、葛西の姓を名乗っています。清重は武蔵国丸子荘を頼朝から与えられるなどの優遇を受けています。

清重は源範頼の配下で平家追討に参加するほか、奥州藤原氏討伐にも参加して、その戦いぶりを評価されています。このため、奥州の数か所の所領と奥州総奉行に任じられます。

足立遠元(あだちとおもと)

武蔵国足立郡の豪族ですが、遠元の父藤原遠兼が住み着いてから足立を名乗ったとも言われています。

また、源頼朝の流人時代からの側近である安達盛長は藤原遠兼の弟と言われていますから、足立遠元は安達盛長の甥になるようです。そんなことからも頼朝への帰参が読めていたのでしょう。

安達遠元も平治の乱で源義朝に従って義平のもとで戦っています。

頼朝の配下になったのち本領の武蔵国足立郡を安堵されています。そして鎌倉政権の中でだんだん枢要な役割を果たしていくことになるのです。

頼朝に参陣した第二陣は

その後に参陣した、畠山重忠、河越重頼、江戸重長となると少し複雑になるのです。彼らはほんの半月前に平家側として衣笠城を攻略した相手ですから。そして彼らの様子を見ていきましょう。

畠山重忠(はたけやましげただ)

畠山氏も武蔵国の男衾郡畠山郷の有力土豪でしたが、平治の乱では源義朝に従って戦っていました。しかしその後は、平家に従っていました。頼朝の挙兵に際しては、平家方で頼朝討伐に向かいましたが、石橋山の戦いには参加できずにいました。

しかしながら、その後衣笠城で三浦一族を攻めて、三浦義明を討ち取っています。それだけに頼朝に参加するについては大きな障害となっていました。何しろ1月前までは平家勢力として戦っていたわけですから。

ここらあたりは、源頼朝がかなり仲介の労を取ったのだと思います。そうでなければ、三浦一族は納得できなかったでしょう。

その後の畠山重忠の功績は群を抜いた働きがあったと言って良いでしょう。木曽義仲との戦いでは、巴御前の鎧の袖を怪力で引きちぎったと言われています。

また、一の谷の戦いでは、怪力で馬を背負って鵯越の逆落としを降りたとも言われています。真偽のほどはわかりませんが。

鎌倉幕府においても重臣として迎え入れられていましたが、1204年(元久元年)に滅ぼされてしまいます。それでも武勇の誉れが高く、高潔な人柄で「坂東武者の鑑」と言われていました。

河越重頼(かわごえしげより)

武蔵国入間郡河越館の領主でしたが、武蔵国の最大の勢力として「武蔵国留守所荘検校職」に任じられていました。妻は頼朝を支えた比企尼の次女で河越尼と言われている人です。

そんな関係もありましたので頼朝に帰参するのも比較的容易だったと思います。しかし、この人も衣笠城で三浦義明を討った軍勢を率いていますから、復帰にあたってはそれなりの調整があったことでしょう。

頼朝の御家人となってからは、重頼の妻が頼朝の嫡男頼家の乳母となるなど重用されていました。しかし、義経が頼朝の許可なく官位をもらったとき、重頼の弟の重経も鎌倉の許可なく任官したので関係がまずくなります。

また、頼朝の命により重頼の娘が源義経に嫁いでいたのですが、頼朝と義経の関係がまずくなるにつれて勢力を失うことになります。

江戸重長(えどしげなが)

江戸重長も畠山重忠、河越重頼と同じように衣笠城の戦いに参加しています。そして同じように頼朝に仕えることになります。

重長はそれなりに頼朝からも重用されますが、前両者者に比べればずっと地味に立ち回っています。そのことが幸いしたのでしょう。幕府内での権力争いに巻き込まれることもなく、長く続くことになります。

頼朝に加わった6人の武蔵国武士のまとめ

源頼朝の軍勢が1180年10月に武蔵国に入った時に頼朝軍に加わった豊島清元、葛西清重父子、足立遠元と第二陣として加わった畠山重忠、河越重頼、江戸重長を紹介してきました。

これらの加入によって、軍勢は5万ぐらいの大勢力になったことでしょう。そのため、1週間ほどで鎌倉に入ることができるようになるのです。ここから、頼朝の本格的な政権作りと、軍勢の組織が始まることになります。

やがて、1ヵ月後には富士川の戦いになります。

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