鎌倉殿の13人の第9回は歴史上の有名な富士川の戦いがありました。水鳥の羽音に驚いた平家の軍勢が総崩れになった戦いです。
この平家の総大将が平維盛でドラマでは濱正悟さんが演じていますが、富士川の戦いの実像と維盛の解説をします。
平維盛とはどんな人だったのか
平維盛は1159年(平治元年)平氏の棟梁である平清盛の嫡男重盛の長男として生まれます。母は宮廷につかえる女性ですがはっきりしていません。
そのため、長男であっても嫡男であるかは微妙な立場となるのです。実際には弟の資盛の方の昇進が早かったため、嫡男とはみなされていなかったようです。
平維盛の人となり
武家としてはどうかと思いますが、粗暴なところがなく性格もおとなしかったようです。特筆すべきはその美貌です。
16歳の頃後白河法皇50歳の祝賀の縁で、青海波を舞った時にその美しさから、「梅桜少将」と呼ばれるようになります。
これは源氏物語の有名な「紅葉の賀」の章で、光源氏と頭中将が「青海波」を舞う場面を再現したもので、当時の人はみな知っていたことでしょう。
これによって、光源氏の再来とまで言われるようになります。また、後に富士川の戦いに出陣したときの出で立ちは、絵にもかけない美しさと言われていました。
平維盛が嫡子になれなかった理由
平重盛はその実績からも平清盛の後継者として嫡男としておりました。しかしながら維盛の母の出自が弟たちに比べて低いこと、妻は藤原成親の娘であることが問題となります。
藤原成親は鹿ケ谷の陰謀に加わっていたため、平家としての立場は極めて悪いものになります。ただし、この事が平家滅亡後の維盛の子供である高清(六代)の命を助けることになります。
富士川の戦いでの平維盛
1180年(治承5年)の頼朝の挙兵に際して、平家は東国追討軍を送り込むことになります。その時の総大将として平維盛が任じられることになるのです。
しかし、この時維盛は精々21歳です。実際の軍勢の運用は、維盛の乳母父で侍大将の伊藤忠清に任されていたはずです。
伊藤忠清は歴戦の勇士ですのでその意味では適切な配置だったのだと思います。しかしこの富士川の戦いでは次の敗因がありました。
一つ目の敗因は出動の遅れです
頼朝が挙兵したのは8月17日、石橋山の戦いは8月23日、しかしその後再起して、10月のはじめには3万近くの勢力に膨れ上がっています。
東国征討軍は9月5日派遣を決定しながら、京をたったのは9月の終わりになります。10月中旬には駿河国に着きますが、その頃には頼朝方は5万という勢力になっているのです。
出立を遅らせたのは侍大将伊藤忠清の意向があったようですが、これは明らかに失敗でした。頼朝方の体制が整う前に坂東へ押し出して潰しておくべきだったのでしょう。
二つ目の敗因は養和の大飢饉です
この頃は養和の大飢饉と言って西日本を中心に不作が続きます。何しろ600万弱の日本の総人口の内4万人以上の餓死者が出たと言われている大飢饉です。
西日本に勢力の中心を置く平家としては大打撃なのです。おまけに、軍隊を移動するには食糧を調達しなければなりません。そのための食糧調達が十分でなかったといわれています。
こんな状況ですから、公称5万人と言われている平家の勢力も実はその10分の1以下と言われています。
しかも出陣が遅れたおかげで、あちらこちらから挙兵の報がしらされ、平家の軍から離脱するものが後を絶たなかったといわれています。
従って富士川に到着したときは精々4千、下手をすると2千という状態だったようです。これでは戦わずしても負けているということでしょう。
それでも維盛は生真面目なせいか、御祖父さんの清盛の言いつけを守ったせいか、けなげに戦おうとするのですが、どうやら伊東忠清は撤退を決めていたようです。そんな混乱の中で、例の水鳥の羽音が響き渡ったのです。
維盛も伊藤忠清も10騎ぐらいで帰ることになりますが、清盛はカンカンに怒ってしまいます。伊藤は死罪、維盛は島流しなどと言っていましたが、何とかとりなされたそうです。
戦慣れせぬ歳若の総大将、平維盛。
水鳥の羽音に浮き足立つ平家の軍。
言葉少なの維盛でしたがその困惑がよく伝わりました。放送中のアニメ『平家物語』では、現在大河ドラマと同じく源平合戦を描いています。
どちらの立場でものを見るか。アニメと大河の同時視聴、おススメです。#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/RPk34GFBJ6— かかまつ (@kakamatsukk) March 6, 2022
その後の平維盛は
こんな様子で散々だった維盛ですが、翌年1181年(寿永元年)になると少し落ち着いた年になります。この年は長い間君臨してきた清盛が亡くなります。
その後、3月には平重衡とともに大将軍として墨俣川の戦いに出陣します。今回は、源行平、義円を打ち破ることになります。
この年は、右中将、蔵人頭になり小松中将と呼ばれるようになります。更に公卿に昇進します。
何かと不安定な状況でしたが、この年と次の年が最良ともいえる状況だったのでしょう。次の年の1183年(寿永2年)にはまた、総大将として担ぎ出されて、倶利伽羅峠の戦いで惨敗し、平家の都落ちに繋がってしまうのですから。
富士川の戦いの総大将の平維盛のまとめ
鎌倉殿の13人第9回では濱正悟さんが平家の御曹司平維盛を演じてりりしかったですね。実際の維盛はこの時まだ20歳ですからもっと初々しい感じだったと思います。
平維盛は富士川の戦い、倶利伽羅峠の戦いに総大将として出陣し、散々な目に遭っていしまっています。まだ、20歳ですから実質の采配はできなかったわけで、本人のせいにするのは気の毒だと思います。
平家も本来はもう少し手練れた人材を派遣しておけばと思うのですが、そのあたりが油断だったのでしょう。
維盛のその後は前線に出ることはありませんでしたが、1184年(寿永3年)一の谷の前後に出奔し謎の死を遂げることになります。詳細は別の機会として、その後も生存説があちこちで残されていることは隠れたファンがいることの証かと思います。
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