鎌倉殿の13人・第15回ネタバレ・木曽義仲の法住寺合戦

鎌倉殿の13人

寿永2年(1183年)閏10月1日の水島の戦いで大敗をした木曽義仲には単独で平家と戦うだけの勢力が残されていませんでした。そこに源頼朝が東海・東山道の行政権を与えられたとの知らせが入ります。

義仲にとっては後白河法皇に裏切られた形になるのです。そして全力を挙げて京に戻り事態の回復を図ろうとします。史上初めての朝廷を相手にした戦いである法住寺合戦になります。

木曽義仲京に戻る

木曽義仲は閏10月15日に京に戻ります。すでに、源頼朝の弟義経が万という単位の軍勢を率いて迫っているとの情報を入手しています。

木曽義仲にしてみれば、平家追討という名目で体よく京を追い出され、その間に頼朝と接触して頼朝の軍勢を京に引き入れて自分を討伐する作戦だと思うのでしょう。まさにその通りなのです。

しかしそうだとしても後白河法皇に直接手を出すわけにいかないところが臣下の辛いところです。朝廷側も義仲の報復を恐れて、右往左往の状況です。特に平頼盛は頼朝と後白河法皇の連絡をしていたのですから、直ちに鎌倉に逃亡してしまいます。

木曽義仲の抗議内容

これらの混乱の原因は、養和の大飢饉で全体に食料が不足していたこと、義仲が京の治安能力がなかったこと、義仲が朝廷の慣習に疎かったことが原因に挙げられますが、そんな義仲を相手にして、法皇側に不義理な点があることは確かです。

閏10月20日には義仲は頼朝に上洛を促したことや頼朝に東海道・東山道の行政権を与えたことを抗議します。それでも、臣下の身からはやりすぎなのですが、一言いいたい気持ちはわかります。

木曽義仲生き残りの方法は

さらに志田義広を平家追討使にするよう、また、頼朝を追討するよう宣旨を要求しますが、ここまで関係がこじれてしまうと、後白河法皇が聞くわけないですよね。

義仲としては完全に手詰まりになったと考えてよいでしょう。方法は結局2つしかないことがわかります。

1つ目は京で法皇と天皇を押さえて、自分の勢力の正当性を確保し、勢力を集めて頼朝に対抗する。その後は平家にも対抗しなければなりませんから。場合によっては平家と和睦する手立てもあるでしょう。

2つ目は、すべての勢力を使って信濃に戻り、体制を立て直す。当然東山道は使えませんから、北陸道になりますが10月だったら逃げ延びた可能性があったと思います。平家と手を結ぶ又は奥州平泉と関係を持つ手もあるでしょう。

結局は1つ目の手段を取ることになるのです。2つ目はじり貧だと考えたのでしょうね。

法住寺合戦

後白河法皇側近は源義経率いる源氏の軍勢が近づくとの情報に接し、木曽義仲と袂を分かつ姿勢を明らかにしてきます。このため、後白河法皇も公然と武装勢力を集めるようになります。

ちなみに法住寺は聞きなれないかもしれませんが、京都市東山区三十三間堂廻り町にある天台宗の寺院です。この頃、後白河法皇はここにあって院政を行っていました。

これには、延暦寺、園城寺をはじめとして、摂津源氏、美濃源氏の一族などが加勢してきました。意を強くした後白河法皇は、11月16日木曽義仲に対して最後通牒ともいえる通知を出します。内容は次の通りです。

①直ちに平家追討のために西に下れ。②頼朝と戦うのであれば、義仲単独の身分で戦え。③京に留まれば謀反とみなす。

という厳しいものでした。あまりに厳しいので、義仲に同情する者も現れましたが、その後続々と法住寺に後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主明雲が法住寺殿に入り対決姿勢を明確にします。

法住寺合戦は木曽義仲の勝利に終わる

しかし、戦いはあっけないものでした。義仲軍もこの程度の寄せ集めの抵抗勢力では、いかに相当の痛手を被ったとはいえ、敵ではありませんでした。11月19日には明雲、円恵法親王、源光長、源光経、藤原信行、清原親業、源基国などが戦死して、後白河法皇、後鳥羽天皇は捕らえられてしまいました。

11月20日には五条河原で討ち取った首をさらすことになり、義仲の完全勝利と言えるでしょう。

木曽義仲のクーデターが成功する

木曽義仲は藤原師家を内大臣・摂政とする政権を樹立してしまいます。そして前の摂政藤原基通の所領を義仲に与えられます。そして朝廷方の43人が解官されてしまいます。

木曽義仲は実質的に朝廷の軍事を完全に掌握したことになります。また、源頼朝追討の院庁下文を出させて、官軍としての体裁を備えることができたのです。12月10日のことでした。

木曽義仲の法住寺合戦のまとめ

木曽義仲が一旦上洛したものの院政側の不興をかって、平家追討に向かわされ、その間に源頼朝を招き入れたことに反発して京での支配を目指したものでした。その結果が法住寺合戦となるわけです。

この法住寺合戦は臣下である木曽義仲が後鳥羽天皇、後白河法皇に公然と戦いを仕掛けた、日本史上例を見ない戦いとなったのです。40年後に起こる、承久の変と同じ構造なのです。その意味では歴史的な貴重な例と言えるかもしれません。

戦いは木曽義仲の圧勝で、その後、傀儡政権を立てて、一時的には成功したと言えるでしょう。しかしここまでしても木曽義仲に賛同する勢力は集まりませんでした。

本来は官軍になったのですから、勢力を集めて、頼朝軍を撃退するという構造でしたが、ここらあたりの政治力が決定的に不足していたことが原因でしょう。力を示せば自然に勢力は集まると思ったのかもしれませんが。

そんなことから1月後の、次の源義経率いる鎌倉軍と木曽義仲軍の戦いとなるのですが。

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