鎌倉殿の13人第20回は源義経が藤原秀衡を頼って平泉に到着します。題して「帰ってきた義経」ですが、義経は幼少の頃鞍馬寺を抜け出して秀衡の元で育てられています。
この秀衡は東北地方の有力者として知られていますが、どのように強大な地位を築いたのか、なぜ義経を保護したのか、また、本人はどのような人なのかを調べてみました。
藤原秀衡はどんな人だったのか
藤原秀衡は保安3年(1122年)藤原基衡の次男として生まれたようです。母親の出自が良かったようです。
父基衡の死去に伴い保元2年(1157年)に家督相続は順調に進みました。このため基衡の権利をすべて受け継いで、出羽国・陸奥国の押領使となり、17万騎とも言われる武士団を抱えることになります。
奥州は馬と金を算出することから、これらの豊富な財力を中央に貢いで欧州の権限を守っていたのです。
嘉応2年(1170年)鎮守府将軍に、養和元年(1181年)には陸奥守に任ぜられるようになります。
治承・寿永の乱、いわゆる源氏と平家との闘いの中にあっても、藤原秀衡は両者から距離を置いています。そして朝廷に対しても配慮を欠かすことがありませんでした。
このような巧みな位置関係を保つことにより、また、財力と強大な兵力を温存していたことから、平和と繁栄を保つことができていたのです。
しかしながら、源頼朝は奥州の勢力をたえず意識していました。当然ですよね、自分の基盤の関東と接していますから、その勢力を脅威に感じていました。
また秀衡の方は平家が滅びた後は源氏が勢力を伸ばし日本全体に支配を進めるようになったため、脅威に感じるようになってきたのでしょう。
大河オタクの一言!(さらに前から)写真3は義経を心配する藤原秀衡、頼朝から京の守護に命じられた北条時政、夫時政を叱咤激励するりくです。(最後へ) pic.twitter.com/XsPgNhpAny
— まちたつ (@QOa2FRaFWLkv9ct) May 20, 2022
奥州藤原氏とはどんな出自なのでしょう
奥州藤原氏とはいったい何なのでしょう。藤原氏と言えば藤原道長、頼道を頂点とする摂関家を想定していますが、これとどのような関係があったのでしょう。
いろいろ系図をたどっていけば、奥州藤原氏は藤原北家の支流にたどり着きますので、何とかつながっているという状態です。奥州藤原氏は藤原清衡を家祖として基衡、秀衡とつながってきます。
そしてその清衡の父親が藤原経清です。経清は陸奥国に在住していましたが、一応摂関家とは何とかつながっていると認められていたのです。
前九年の役で陸奥国の安倍氏が滅ぼされる
当時の陸奥国には安倍氏という大豪族が陸奥守の下で国を治めていました。その安倍氏の娘と経清の間にできたのが、後の藤原清衡になるのです。
しかし、安倍氏と陸奥守が争いとなり、源頼義が介入することになります。そして出羽国の豪族清原氏が加勢することによって安倍氏は滅ぼされてしまうのです。
藤原経清は安倍氏に加担したため、頼義によって斬首されてしまいます。これが前九年の役と言われているものです。
後三年の役により清衡が清原氏の家督を継ぐことに
清経の妻は清衡を連れて、清原氏に嫁ぐことになるのです。不思議なことだと思われますが、それだけ清経の妻は美貌の持ち主だったようです。常盤御前と義経と同じようなものだと考えればよいでしょう。
清衡は清原氏の息子となり清原清衡と名乗るようになります。やがて清原氏の家督争いが起こるようになります。
清衡は源頼義の嫡男である八幡太郎義家の助けを得て、清衡が清原家を治めることになるのです。つまり敵側の子供だった清衡が最後の勝利者になるのです。これを後三年の役と言われています。
これによって陸奥国、出羽国の広大な地域の経営権を清衡は手中に収めるようになったのです。そして、自分の父の姓である藤原を名のり、藤原清衡となるのです。
藤原秀衡はどのようなビジョンを描いていたか
藤原秀衡にとっては奥州にあって既に財力と兵力は保持していますから、この状態を如何に維持していくことが関心事だったのだと思います。源氏に替わって日本全国を治めようなどということは考えていなかったことでしょう。
強いて言えば、その出自に不満があったことでしょう。確かに朝廷には相当の貢物をしているものの、やはり出自の低さにより朝廷からは財力では頼られるものの朝廷貴族から受けるいささかの軽蔑感を感じていたことと思います。
このため、何とかして一族のの地位を上げて、朝廷と強固な関係を作りたかったのではないでしょうか。
鞍馬寺から出奔した源義経を受け入れたのもそんな事情があったことでしょう。義経はれっきとした清和源氏の血筋を引き継いでいますので、貴種と言えるわけです。最初は義経を自分の血筋に加えようとしたのだと思います。こうすることによって奥州藤原氏の格を上げようとしていたのでしょう。
ところが、頼朝の挙兵によって義経が平泉を離れるというハプニングが起こってしまいます。これで義経を取り込むことが難しくなってきたのです。
しかし同時に義経の軍事の才能が予想外だったと思います。そして義経が平泉に戻って来たときに義経を総大将にして強固な国家を作ろうと考えたことでしょう。最後にはその通りに事が運ばなかったところが残念ですが。
源義経が頼った藤原秀衡は何者のまとめ
藤原秀衡の生まれ、特に奥州藤原氏の誕生の経緯について調べてみました。この成立の事情は、同じ大河ドラマの「火立つ(1993年)」で詳しく描かれていましたので、とても興味がわく話です。
何れにしろ、藤原秀衡の構想も秀衡の後継者である国衡、泰衡の確執などを源頼朝につかれて最後には瓦解してしまうのです。そう思うと秀衡はもう少し入念な計画を立てるべきだったかと思うのですが。
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