鎌倉殿の13人・梶原景時の変はどのように起こったか。

鎌倉殿の13人

鎌倉殿の13人もいよいよ宿老たち御家人13人の合議制で、源頼家を支える体制を作ります。しかし頼家はそんなことは有難迷惑と近習たちを重視した体制を引こうとします。

そのなかで、宿老たちの内部抗争が本格化してきます。まず最初に起こるのが梶原景時の変と言われるものです。これはどのように起こり、どんな人がかかわってきたのでしょうか。

梶原景時の変はどのように起こったか

梶原景時の変は源頼家が第二代の鎌倉殿になってすぐに起こった鎌倉幕府の中の内部抗争です。いわばこれから何年間にわたる内部抗争の最初の事件と考えてよいでしょう。

源頼朝が亡くなったのは正治元年(1199年)の正月になります。その後、頼家の体制が引かれますが、その10月25日のことです。

鎌倉幕府の政所で結城朝光がとある発言をするのです。「忠臣は二君に仕えずというが、頼朝殿が亡くなった時に出家しておくべきだった。今の世は何だか薄氷を踏むような思いがする。」という趣旨の発言をしたと記録があります。

それだけならどうということもないように感じられますが。どうやら体制批判としてとらえられたようです。

10月27日に阿波局、すなわち北条政子の妹になる人です。ドラマの中では実衣として登場している人ですが、結城朝光にたいして、「この前のあなたの発言が謀反の証拠として、梶原景時が将軍に告げたため、あなたは殺されるでしょう。」とご丁寧にも告げたそうです。

ビックリした、結城朝光は三浦義村に相談し、他の御家人たちに働きかけて、梶原景時の糾弾を図ることになります。

翌日には主だった御家人のほとんどが参加して、梶原景時糾弾の連判状を作成します。この中には、三浦氏、比企氏、和田氏が入っていますが、なぜか北条氏は加わっていないのです。この書状はやがて頼家に届けられることになります。

11月12日には頼家は梶原景時に弁明を求めますが、景時は何の申し開きもせず、鎌倉を後にします。

12月18日には梶原景時は鎌倉追放処分となります。

翌年の正月20日梶原景時は一族とともに京都に上る途中の駿河国清見関あたりで合戦となり一族はすべて討ち死にした事件です。

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梶原景時の変に関係した人々

梶原景時の変は次のような経緯で終始しましたが。関係者を簡単に説明しておきます。

梶原景時

梶原景時は、源頼朝挙兵の時は平家側についていました。源頼朝が石橋山の戦いで大敗して、山中で潜んでいた時に、敵側の梶原景時に見つかりますが、なぜか景時は頼朝を見逃すのです。

頼朝が再び安房国から鎌倉に入ってきたときに仲介を通して頼朝に降伏しています。

その後、頼朝腹心の部下として使えることになり、侍所の所司となり、やがて別当となります。頼家の代になっても何かと頼家のブレインとして活躍することになります。

結城朝光(ゆうきともみつ)

結城朝光は仁安3年(1168年)の生まれですから、この事件が起こった頃は33歳ぐらいだったのでしょう。下野国小山の豪族小山政光の子として生まれています。

母が源頼朝の乳母である寒河尼ということで、頼朝が烏帽子親になり、引き立てられます。

文武両道に秀でていたようで、弓の達人、和歌にも琵琶にも通じていたようで、様々な戦場でも活躍しますが、自分の立場を良くわきまえて行動していたようです。

このことが、鎌倉幕府内の権力闘争に巻き込まれることなく天寿を全うすることにもつながるわけです。ドラマの中では阿波局の琵琶の先生として登場してきますね。

阿波局

北条時政の娘になります。北条政子の妹とでもあります。源頼朝の弟の阿野全成の妻でもあります。

この人もいろいろな立ち回りをしていますが、梶原景時の変で結城朝光に事態を告げたのが最初になります。しかし、今後起こる比企の変などでは重要な役割を果たしています。

梶原景時の変の原因を探ると

梶原景時の変については何か不思議なものを感じるのです。簡単に述べるだけで次のような疑問が浮かんでくるのです。

1.今まで表舞台に出てこなかった結城朝光の発言が、謀反として梶原景時の耳に入り、どうして将軍頼家まで報告されてしまうのか

2.梶原景時の将軍への報告をどうして阿波局が知って、ドラマでは琵琶の先生になっているものの、あまり関係のない結城朝光に知らせる必要があったのか

3.自分の危急を知った結城朝光がどうして1日の間に66人もの御家人の梶原景時糾弾の賛同を集めることができたのか。そしてその中に北条氏が入っていなかったのか。

4.梶原景時はどうしてあっさり引き下がったのか、どうして事前の工作ができなかったのか。

5.梶原景時はなぜ京へ向かったのか。駿河国で梶原景時を襲ったのは誰なのか。

こんなことを考えるにつけて、やはり北条氏の陰謀と考えたほうが良いのかもしれません。

その前提としては、梶原景時が実力をつけて行って、源頼朝どころか頼家にも深く信頼を置かれるようになったことが原因でしょう。

それによって、御家人たちは、この梶原一強状態を解消する必要があると考えたことでしょう。そこで北条氏が全体の仕掛けを考えたのではないでしょうか。連判状から北条氏の名前がないこと、阿波局が重要な役割を担っていることもあるでしょう。

梶原景時は鎌倉幕府の中では立ち位置がなくなったと考えて、朝廷に仕えようと考えたのでしょう。教養があり京の事情にも通じている梶原景時ならではの決断だったようですが、もはや事態は遅すぎたようです。

北条時政は駿河国国司ですから、駿河国内で梶原景時を襲撃することはたやすかったことでしょう。

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鎌倉殿の13人・梶原景時の変はどのように起こったかのまとめ

鎌倉幕府の権力闘争の幕開けとなる「梶原景時の変」について解説してきました。それにしても残念なのは、梶原景時が自分の立ち位置が危ないことにどうして気がつかなかったのでしょうか。

源頼家政権下では一強状態ですが、相当他の御家人には恨まれているのでそんなことは分かっていたはずです。それとも頼家さえ自分に引き付けていけば十分だと思ったのでしょうか。

また、最後に一族を連れて京に向かうのですが、僅か30騎ばかりでは危ないことは自分もわかっていたはずです。どうして自分の延命策を考えることができなかったのか残念です。

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