平家打倒の先駆けとなった以仁王の令旨を全国の源氏に届けたのは源行家です。
この人は源為義の十男であり、源義朝の弟にあたる人です。この人も源義朝と同じように平治の乱に参加し敗れますが、生き残ります。そして、1180年4月に源頼朝に以仁王の令旨を届けます。
どのようにして生き残ったのか、また、その後はどのような人生を歩んだのでしょうか。
源行家の生まれは
源行家の生年は1141年(永治元年)~43年(康治2年)の頃と言われています。河内源氏の嫡流の為義の十男として生まれます。母の名前は伝わっていないので、あまり高貴な身分ではなかったようです。
同じく同母の姉にあたるのが後に鳥居禅尼と言われている方がいます。この人は後の第19代熊野別当となった行範の妻となります。夫の死後、剃髪し鳥居禅尼となり、一族を率いる中心人物となり、鎌倉幕府にも手厚く遇されていました。
脱線しましたが、そんな事情もあり、熊野とは深い結びつきがあったのです。若いころは新宮に住んでいたため新宮十郎とも言われています。
平治の乱では源行家どのようだったのでしょう
1159年の平治の乱では兄の源頼朝に味方して参加しますが、ご承知のように源氏は敗れてしまいます。
源行家は何とか落ち延びて、その後、姉を頼ったようですが、熊野に20年間潜伏することになります。熊野別当は公式的には平家に従っていたようですが、姉の保護のもとに潜伏できたのでしょう。
以仁王の令旨を全国に配ったいきさつとその成果は
以仁王に平家追討の令旨を発するようにもちかけたのは源頼政です。
頼政は源氏と言っても頼朝とは若干系統が異なる摂津源氏の出です。
平治の乱のときには美福門院が支持する二条天皇を支援していた頼政は、二条天皇が内裏から六波羅に脱出したため、二条天皇に従う立場を取ったため、源義朝とは袂を分かち平清盛に味方することになります。
このため、平治の乱の勝者となり平家全盛の時代でも源氏の長老として重きを置いていたのです。
源行家は源頼政に召し出されて、以仁王の令旨を配る役目を負うことになります。
そして、1180年4月から源光信(美濃)、多田行綱、山本義経(近江)、武田信義、一条忠頼、安田義定(甲斐)、源頼朝、源義経など諸国をめぐることになります。2か月程度で全国を回ることになります。
その途上ですが、5月には以仁王の謀反が発覚してしまい、5月26日にはそれまで、平家側としてノーマークだった源頼政も以仁王に加わり討ち取られてしまいます。
しかしながら、その後8月にかけて、源頼朝、源義仲、甲斐源氏、近江源氏が蜂起することになります。
源行家は平家に対して決起したのでしょうか
全国に令旨を届けた後、行家は三河、尾張で勢力を広げようとします。そして、1181年尾張国で蜂起することになります。
源義経の同母兄にあたる源義円とともに、墨俣川の戦い、矢作川の戦いをおこしますが、どちらも敗れてしまいます。義円は墨俣川の戦いで戦死します。
このため、頼朝の下に逃れますが、所領を求めたりしたため、頼朝からは歓迎されなかったようです。このため、頼朝とは不仲になって、源義仲の下について、1183年京まで攻め入ります。
こういう事情ですので、頼朝は人物を見る目が確かなようでした。行家という人は交渉、扇動、立ち回りには向いていますが、戦いとなると全くダメなようです。しかも、利のある方についていく傾向があることを頼朝は見抜いていたのでしょう。
京での源行家の活動
京に入ってからは、勲功を源義仲と争うことになります。朝廷の中では第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家ということで整理がつきます。
従五位下備後守に任じられますが、不満いっぱいで、運動の結果、備前守になります。その他平家の所領をもらいます。このぐらいで満足していればよかったのです。
京に入ってからは、行家は水を得た魚のように動き回ります。何しろ義仲とは正反対で、武力はほとんど頼りにならないものの、弁舌と立ち回りについては義仲とは比較にならなかったようですから。そのため義仲に狙われることになり、平家追討を名目に京を脱出しています。
しかしながら、やはりというのか、播磨の国で平家に敗れてしまい、逃げ戻った河内国でも義仲の軍に敗れてしまい、紀伊国に逃げ込みます。こんな感じですから評判は悪かったでしょうね。
義仲滅亡後はまたもや京に戻り、河内国、和泉国を支配しておとなしくしていましたが、平家が滅びたのちは、源義経と結んで反頼朝の院宣を受けます。
そして、四国地頭となりますが行家に従う武士団は現れず、また、西国渡航も暴風雨にあって失敗したため、和泉国に潜伏することになります。
しかしながら、これも密告により発見され、捕らわれたのち処刑されてしまします。1186年のことでした。
源行家はどんな人?以仁王の令旨を全国の源氏に届けるのまとめ
源平の争いの中で、源氏が蜂起するきっかけとなる以仁王の令旨を全国に配った源行家の働きはとても重要なものとなります。確かにこれだけの働きで歴史に名前をとどめることができたのです。
源氏の為義の子供、義朝の弟ではあるものの、戦闘については全く見るべきものがありません。
本当はおとなしくしていればそれなりに人生を全うできた可能性もあるでしょうが、どうしても自分のプレゼンスを出したくて、源義仲についたり、源義経についたりして最後は処刑されてしまうのです。
もっとも、頼朝は彼の資質を見抜いていたようですから、難しい鎌倉幕府の中で生き延びれたかどうかはわかりませんが。