鎌倉殿の13人・第24回ネタバレ・頼朝の娘、大姫、三幡の悲劇

鎌倉殿の13人

鎌倉殿の13人第24回は「変わらぬ人」です。今回の話題は源範頼と大姫になるだろうと思われます。頼家については前回に解説したので、大姫に注目したいと思います。

源頼朝と北条政子の間には二男二女が産まれています。大姫、頼家、三幡、実朝の順番です。今回はそのうち大姫と三幡について解説していきます。

頼朝の長女大姫

大姫は治承2年(1178年)に生まれます。まだ頼朝挙兵前の流人の時代ですので、つつましい家庭生活だったことでしょう。

しかし大姫が数え年3歳の時、頼朝が挙兵し事態が大きく変わってきます。最初は石橋山の戦いで大敗し、安房国へ逃げ延びたものの、半年後には鎌倉まで進出し、坂東全域を支配するようになります。

しかし、同時期に挙兵した木曽義仲、武田信義との勢力争いも生じることになるのです。源氏の系統は内輪もめが絶えませんから。一時は木曽義仲とは戦いの直前まで進んでしまいます。

大姫と木曽義高との婚姻

寿永2年(1183年)木曽義仲は長男の義高を人質として鎌倉に送ることになります。表面的には頼朝の長女大姫の婿ということになります。

大姫6歳、義高11歳のことでした。両者とも睦まじく暮らしていましたが、そこから悲劇が訪れることになるのです。

木曽義仲は寿永3年(1184年)源頼朝によって滅ぼされてしまいます。このため、頼朝は義高の殺害を命ずるようになります。大姫は義高を邸内から脱出させ、身代わりを置いて工作をしていましたが、やがて見つかり、義高は殺害されてしまうのです。

このことは大姫の精神をひどく傷つけ、大姫は食事もとれなくなり憔悴してしまいます。

そんなことがあったため、大姫は精神を病んで病弱の日々を送るようになってしまいます。最終的にはこのことが大姫の寿命を縮めたと考えるのが妥当でしょう。

摂政・近衛基通との婚姻

平家が勢力を失って西国に逃れた後の元暦元年(1184年)8月、後白河法皇の意向によって大姫と摂政・近衛基通との婚姻が持ち上がります。大姫は17歳の年になります。

近衛基通は摂政関白近衛基実の長男として、永歴元年(1160年)に生まれています。本来の嫡流なのですが、父の基実は基通が7歳のときに亡くなってしまい、摂政関白の地位は弟の松殿基房が継承してしまいました。

しかしながら、平清盛の娘盛子が養母となり、基通の系統に摂関家が継承されることになったのです。治承3年(1179年)には関白となり、翌年には安徳天皇の摂政になっています。

一時木曽義仲に排除されましたが、後白河法皇の信任も厚く摂政に復帰しています。

しかしながら、源頼朝はこの婚姻を拒否することになります。その理由としては、近衛基通は平家と近かったこと、更には、源義経の頼朝追討に加担したことが原因とされています。

やがて、すべての職を解かれて叔父の九条兼美が摂政になります。

一条高能との婚姻

一条高能は源義朝の娘である坊門姫と貴族である一条能保との間に安元2年(1176年)に生まれます。大姫の2歳年上になり、親戚筋と言っても良い家系です。

建久5年(1194年)、大姫17歳のときにこの縁談が進ことになります。

頼朝も今度は親戚筋だからうまくいくと思ったのでしょうが、大姫がこの話を持ち掛けられた時、「淵に身を投げてやる。」と拒絶したそうです。そんなことからこの話もあきらめることになります。

後鳥羽天皇への入内

建久6年(1195年)源頼朝は政子と大姫をともなって上京します。正式な目的以外に、頼朝は大姫を後鳥羽天皇に入内させるための工作を開始します。このための工作の相手は土御門通親と丹後局です。

近衛基通を排除して摂政に付けた九条兼美は、兼美の娘が後鳥羽天皇の中宮となっていたため、むしろこの工作の敵対者となるのです。そんなことから土御門通親と丹後局には多大な贈り物と利益供与をすることになります。

しかしながら大姫は建久8年(1197年)に病死することになってしまいます。20年の生涯でした。

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頼朝の次女三幡(さんまん)こと乙姫

三幡は源頼朝と北条政子の次女として文治2年(1186年)に生まれます。

大姫を後鳥羽天皇のもとに入内させようとしていましたが、大姫が死去したため、三幡を次の候補として工作をしていました。

これが功を奏し、三幡は女御として称号を与えられ、入内を待つばかりになっていました。

しかしながら、建久10年(1199年)1月に源頼朝は急逝することになるのです。それでも三幡入内の準備は進んでいましたが、三幡は3月から高熱を発して病気になってしまいます。

政子は祈祷とか名医を求めて八方手を尽くすことになりますが、6月30日に亡くなってしまいます。享年14でした。

頼朝の娘、大姫、三幡の悲劇のまとめ

頼朝と北条政子の4人の子供のうち息子の頼家、実朝は有名ですが、大姫、三幡については取り上げられることがないので調べてみました。こうしてみるといずれも不幸なというのか残念な結果に終わっています。

女子である大姫、三幡にしても政争の果てに不幸なことになってしまいます。頼朝は政治的には東国に鎌倉幕府を作って朝廷から距離を置くことをしていましたが、個人的には旧来の風習である天皇の外戚を狙うなどまだまだ平安時代のの風習にこだわっていたようです。

その姿は自分が倒した平家政権と変わらない姿です。そんな中で生涯を終えた哀しい物語でした。

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