「鎌倉殿の13人」第4話では、ついに源頼朝が挙兵することになりました。この時に駆け付けた、康(かん)すおん(62)さん演じる佐々木秀義(ひでよし)がとても面白かったですね。
歯が抜けて何を言っているのかわからない演技でしたが、この設定では68歳ですからそんなこともあるでしょう。一体この人はどんな経緯の人なのか調べてみました。
佐々木秀義(ひでよし)の生い立ち
もともとは近江国蒲生郡佐々木荘を支配している豪族で、近江源氏と言われている一族です。
1112年(天永12年)の生まれです。秀義の母方は奥州藤原に繋がり、本人は源氏の棟梁である源為義の娘を妻としていることから、源氏の中で有力な武士だったようです。
保元、平治の乱で源義朝について戦っており、敗戦後、4人の息子を伴い奥州藤原氏を頼って逃げていく途中で相模国の豪族である渋谷重国に引き留められています。
そのころすでに48歳になりますが、渋谷重国の娘を妻として2人の男児を設け、そこで20年暮らしていたのです。
渋谷重国はそういう意味では命の恩人であるばかりか、大恩人と言っても良いでしょう。
佐々木秀義が頼朝の挙兵に参加した理由は
これは簡単ですよね。もともと源氏の有力者ですので、平家側の渋谷家にお世話になっていても、頼朝が挙兵するとなれば、駆け付けることになるでしょう。特に、当人と4人の息子は源氏についていましたからね。
しかし、事情は少し違っていたようです。佐々木秀義の5男の義清はご説明の通り、渋谷重国の孫になりますし、相模の有力な豪族である大庭景親の娘を妻にもらっていたのです。
その大庭景親が頼朝討伐の計画を進めていて、佐々木秀義がこの相談を受けることになったようです。それは、8月7日のことと言われています。
秀義はこれは一大事と、長男の定綱を頼朝のもとに送り、これを知らせます。
どうやら、この事が頼朝挙兵の引き金になったようですね。こうなれば、秀義本人、定綱、経高、盛綱、高綱が参加することになるのです。
#鎌倉殿の13人 に登場され、愛らしいお姿が話題の #佐々木秀義 公😊#佐々木定綱 公ら #佐々木四兄弟 は #堤信遠 公を討ち、秀義公と共に挙兵後初の論功行賞で旧領の佐々木庄を安堵されます
秀義公は死後、功により近江権守を贈られます#佐佐木源氏 発祥の地が #近江八幡市 にある #沙沙貴神社 です⛩️ pic.twitter.com/25K7hwKGCp— 在原 叶 (@Garasha_lily) February 6, 2022
頼朝挙兵時の秀義、定綱、経高、盛綱、高綱は
頼朝挙兵時の秀義は68歳でさすがに老齢ですが、定綱は38歳、経高は不詳ですが、盛綱29歳、高綱20歳ですのでちょうど働き盛りでしょう。定綱、経高は平治の乱の経験もあったかと思います。
定綱、経高、高綱は目代の山木兼隆の後見であり武勇に優れた堤信遠を討ちに出かけ、これを果たします。経高はその後山木兼隆の邸宅を襲い、その首を討ち取ります。
どうも、伊豆の豪族も山木兼隆、堤信遠の襲撃に参加したのですが、どの程度の働きをしたのか疑問に感じるところもあります。
というのは、どうも血縁続きであまり真剣に戦う状況にならなかったのではないでしょうか。
また、ドラマの中でも源頼朝が危惧していたように、この土地の豪族は本当に戦闘の構えができていないのかもしれません。いわば、喧嘩の延長みたいな戦いをしていたのではないでしょうか。
そういう意味では、頼朝挙兵にあたっての貴重な戦力だったのかもしれません。
その後の石橋山の戦いでは大敗しますが、それぞれに難を逃れることができました。
治承・寿永の乱の後の佐々木秀義、定綱、経高、盛綱、高綱は
頼朝挙兵に従った功により、もともとの本領である近江国蒲生郡佐々木荘を安堵されることになり、佐々木秀義は故郷の佐々木荘に戻ることになりますが、1184年(元暦元年)伊賀、伊勢の平家の残党と戦い亡くなります。73歳でした。
佐々木定綱は
近江、長門、岩見、隠岐の守護となります。途中でトラブルがあり、一時免ぜられましたが、再び復しています。病気によって出家し、2日後に亡くなっています。64歳でした。
佐々木経高は
堤信遠の館について子の刻に最初の矢を放ったことから知られています。これが、源家が平家を制する最前の一箭と言われています。
淡路、阿波、土佐の守護に任じられますが、その後後鳥羽上皇の怒りに触れて免ぜられてしまいます。承久の乱では朝廷方についており、北条泰時から降伏勧告の使者を受けて、自害します。
佐々木盛綱は
一貫して頼朝に従って行動しています。そういう意味では側近と言ってよかったのかもしれません。
頼朝が没した後には、盛綱も出家をしてしまいます。しかしながら、出家の身であっても建仁の乱、牧氏事件など反乱事件の鎮圧に加わっているところを見ると、軍事については相当秀でていたようです。
佐々木高綱は
4人の中ではとくに有名で、梶原景季との宇治川の先陣争いは有名です。長門、備前の守護となり、安芸、周防、因幡などに恩賞地を与えられています。
1195年に家督を譲って出家していますが、この人も軍略に秀でているようで、様々な騒乱の時にアドバイスを与えたりしていたようです。
源頼朝の挙兵に参加した佐々木秀義と4人の息子について解説のまとめ
歯抜けで何を言っているのかわからない佐々木秀義を演じた「康すおん」さんの演技は好評を得たと思います。番組の所々でこんな場面が挟まれば楽しい番組となるでしょう。
そんなことから、この人物に注目して調べてみましたが、どうやらこの一族が貴重な戦力になるようですね。頼朝にしてみれば数少ない身内の兵力と考えていたのではないでしょうか。
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