鎌倉殿の13人の第16回のサブタイトルは「助命と宿命」です。そして、今回から静御前が登場します。静御前というと源義経の愛妾として知られているだけですが、どんな人でどのような人生を送ったのかを解説していきます。
静御前の生い立ち
静御前は礒禅師の娘として生まれます。礒禅師の生まれは大和国磯野で現在は大和高田市の土地であったようです。この礒禅師が京に出て白拍子として活躍していました。
白拍子というのは水干に烏帽子を着用して舞う人のようで、現代に置き換えれば、男装の麗人のような感じだと思われます。どうやら礒禅師はこの白拍子の親方のような存在だったのでしょう。京においては相当羽振りが良かったようです。
静御前が磯禅師の子として生まれたいきさつはよくわかりませんし、父親も不明です。礒禅師も京で活躍するからにはそれなりのパトロンがいたことでしょう。
静御前も母親から舞と歌を習ったことでしょう。母親の血筋を受け継いだ美貌と舞と歌も上手だったのでしょう。
静御前の舞が雨を降らせる
静御前についてはこんな逸話があります。京で日照りが続いて雨乞いのため白拍子が100人集められました。場所は神泉苑です。神泉苑というと当時の御所の南にある池です。今では二条城の南側に神泉苑がグッと縮小されて残っていますが、当時は京にあって自然に湧き水が豊富に出る大きな池でした。ここで貴族たちは舟遊びなどをしていました。
ここで100人の白拍子が舞を舞っても雨は降らなかったのが、静御前が舞うとたちまち雨が降ったというということです。
それほど静御前の舞は見事だったのだということでしょう。後鳥羽天皇の頃と言われていますから平家の都落ち以降の寿永2年(1183年)又は元歴元年(1184年)の頃でしょう。
静御前、源義経と出会う
静御前が源義経と出会うのは平家滅亡の文治元年(1185年)、京に戻った時と言われています。源義経は平家を討ち滅ぼした武将として京でももてはやされていましたから、まさに時の人だったでしょう。
そんなことから京の各方面からお誘いがあったことでしょうから、当時、随一と言われた舞姫と出会うのも時間の問題だったのではないでしょうか。静御前にしろ義経にしろ親しくなるのは自然の流れですね。
しかしその生活も長くは続きませんでした。半年後の10月には、義経は頼朝からの刺客に襲われます。これをきっかけとして、義経と頼朝は決定的に対立してしまうのです。
これに混乱を加えたのは後白河法皇です。義経の要請で頼朝追討の院宣を出したり、そうと思えば頼朝の要請で義経追討の院宣を出したりで、状況をややこしくするばかりでした。しかし、残念なことには義経に賛同するものがほとんど現れなかったことです。やはり組織力の差と人望だったようですね。
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静御前は源義経と鎮西に向かうが
鎌倉から義経追討の軍勢が来るとの情報が入ったため、義経一行は鎮西(九州)で体制を立て直そうと摂津国から船出をします。
静御前もこれに同行することになりますが、暴風雨のために船は難破して元に戻ってしまいます。平家との闘いでは鬼神のような働きをした義経も雨を降らせた静御前の力も及ばなかったようです。
一行は吉野を目指して進みますが、その先も厳しい旅になります。また、女人禁制の山もあるため、静御前と別れることになります。
義経は安全を期して供を付けますが、その供に裏切られ、持ち物をすべて奪われてしまうことになるのです。山中をさまよっていたところを最終的には捕らえられてしまいます。
静御前は鎌倉に送られる
静御前は一旦京の六波羅に送られた後、母親の礒禅師とともに鎌倉に送られることになるのです。文治2年(1186年)3月のことになります。
静御前は鶴岡八幡宮で舞を舞うことになります
同年4月のことです、静御前は鶴岡八幡宮で舞を舞うことを命じられます。この場面が静御前の有名な場面です。そしてその時に歌った歌も有名で残されています。
「しづやしづ しづのおだまきくり返し 昔を今に なすよしもがな」(麻糸を巻いたおだまきから糸が繰り出されるように、繰り返して昔を今に戻せないか)、「吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」(吉野山の白雪を踏み分けて行った人の跡が恋しい)。
このように義経を慕う歌を歌うのです。源頼朝はこれを聞いて激怒することになるのですが、妻の北条政子と娘の大姫は大いに同情してとりなしたと言われています。この時の舞は絶品と言われていて聴衆は皆感動したと言われています。
静御前は義経の子供を身ごもっていました
これはもう一つの悲劇と言われています。頼朝からは子供が男なら殺す、女なら助けると言われていました。結果、生まれた子供は男の子で、取り上げられて海に沈められたと言われています。かって八重姫と頼朝の子が川に沈められたのと同じことになるわけです。
静御前と礒禅師は9月には京に戻ることになります。その際も北条政子と大姫が力になったと言われています。
静御前登場、ヒロインの人生はのまとめ
この時代の最大のヒロイン静御前の人生を追ってきました。考えてみればこの時代に限らず、なかなか波乱万丈の生涯だったと言われています。
静御前は母親の礒禅師と一緒に嵯峨に住んだと言われています。その他にも義経を追って旅に出た説などいろいろあり、全国に多くの場所が提唱されています。
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