石橋山の戦いで大敗した源頼朝を安房国に逃がした功労者はどんな人

鎌倉殿の13人

石橋山の戦いで大敗した源頼朝はその後伊豆の山中に逃亡しますが、やがて、真鶴岬から三浦半島を経て安房国まで脱出します。

頼朝にとっては平治の乱で六波羅まで護送されて以来の最大の危機でした。この逃亡に関わった人について紹介します。

伊豆山中から海路で安房国へ逃亡させた土肥実平(さねひら)

相模国足下郡土肥郷を本拠とする豪族です。1180年の頼朝挙兵から参加しています。当初の計画通り三浦一族と合流することになっていましたが、豪雨で三浦一族と合流する前に大庭景親軍と向き合うことになり大敗してしまいます。

その後は伊豆の山中で頼朝と行動を共にしますが、まとまっていたのでは目に着くので、この土地に明るい土肥実平に任せてそれぞれが落ち延びることを進言し、それが功を奏したことになります。

そして実平の導きで真鶴半島から船で脱出することに成功するのです。

余談ですが「鎌倉殿の13人」のなかで頼朝に洞窟で切腹の作法を教え込もうとしたのはこの実平です。

平家との戦いでは軍奉行として参加し、その後も頼朝の信任が厚かったと言われています。

伊豆山中で頼朝と遭遇しながら見逃した梶原景時

梶原景時は大庭景親とともに石橋山の戦いでは平家側として戦います。そして、頼朝軍が大敗した後、伊豆山中を頼朝追跡のため、くまなく探し回るのです。

土肥の椙山のししどの窟で頼朝たちを見つけますが、ここには蝙蝠しかいないと言って見逃したと言われています。大庭景親はそれを怪しみますが、断固、筋を通して洞窟には近づかせなかったといわれています。

後に頼朝軍が安房国に逃げ、上総、下総の軍勢を引き連れて鎌倉に入り、富士川の戦いで平家を打ち破った後、梶原景時は土肥実平を通じて頼朝に降伏し、頼朝の御家人となります。

その後は、鎌倉政権の中で御家人筆頭と言われるまでに重用されることになります。

安房国で頼朝受け入れた安西景益

頼朝が安房国に到着したのは1180年8月29日で、地点は安房郡鋸南町竜島(りゅうしま)とも館山市洲崎ともいわれています。石橋山の戦いから6日後になります。

「鎌倉殿の13人」では猪野学さんが演じている安西景益は安房国丸御厨(千葉県南房総市丸本郷)を本拠とする豪族でした。

頼朝は京に居たころ伊勢神宮にこの地を寄進していることから、安西景益は頼朝に従っていたと考えられます。また、安西家と三浦家は関係が近く良好だったことも幸いしているようです。

安房に到着すると、参上するように手紙を出しております。これを受け取った安西景益は直ちに主だったものを連れて、頼朝のもとに参上しています。

その後、頼朝を迎えて案内したり、また、上総、下総の状況、特に、上総広常、千葉常胤の動向を説明して対応についての助言を与えております。

そんなこともあり、その後、鎌倉幕府の成立後は、重用されるようになります。北条政子の安産祈願に使わされたり、東大寺再建供養の上洛に同行したりしています。

安房国に勢力を持っていた三浦一族

三浦一族は相模国三浦半島を中心とした勢力のある豪族でした。

このため、頼朝挙兵に際しては三浦の兵力をあてにしていたわけですが、石橋山の戦いでは豪雨のため三浦一族は酒匂川を渡ることができずに、頼朝軍と合流できなかったことが、石橋山の戦いの敗因となるわけです。

その際でも最悪の場合は、最後は安房国に脱出しようと取り決めしていたようです。なぜなら、上総、下総の国には有力な豪族が支配している状況でしたが、安房国には大きな豪族がいないため、三浦一族の影響が強い地域でした。

海を隔てているので不便なようですが、小舟で2,3時間の距離ですから問題なかったようです。

三浦一族も石橋山の戦いの後、衣笠城を襲われて、一族は安房国に異動し頼朝と合流していますので、安房国は三浦一族にとっても安全な地域であったようです。

石橋山の戦いで大敗した源頼朝を安房国に逃がした功労者はどんな人のまとめ

源頼朝の人生最大の危機、石橋山の戦い以降の逃亡を助けた人々を紹介してきました。こうしてみると、この危険な状況で良く生き延びられたと思います。

偶然とはいえ、様々な人の努力が実を結んで、安房国迄逃亡することができ、そこで、体制を立て直すことができたのです。

この事件を徳川家康が堺に旅行していた時に起こった、本能寺の変の後、伊賀路を通って三河まで逃げ延びた神君伊賀越えに例える人もいますが、この状況を見るにつけて、それ以上の難事業だったと思います。

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