鎌倉殿の13人・第13回ネタバレ・木曽義仲と源頼朝との関係は

鎌倉殿の13人

第13回「幼ななじみの絆」ではいよいよ木曽義仲が本格的に登場します。一般に治承・寿永の乱というと源氏と平家の戦いと考えるのですが、源氏対源氏の争いも相当行われています。

源頼朝と木曽義仲、武田信義も同じようなもので平家という共通の敵がありながらそれぞれに激しい戦いが演じられているのです。同じ源氏の中で源頼朝と木曽義仲の関係を説明します。

木曽義仲の生まれた状況は

木曽義仲は源義賢の次男として久寿元年(1154年)に武蔵国で生まれます。源義賢は源為義の次男ですので、頼朝の父親の源義朝とは兄弟の関係になります。一般の兄弟なら本来は一族ということでそれなりの良い関係があるのですが、どうも源氏の一族はうまくいきません。

源為義から源頼朝の父義朝、義仲の父義賢の関係をひも解くと

源義朝と父親の為義とは何故か折り合いが悪いのです。したがって、義朝vs為義、義賢という関係になるのです。この原因としては、源為義自身の行動が問題だったようです、そして白河院の信頼を全く失ってしまい、このため摂関家に接近することになるのです。

一方、義朝の母は白河院の近臣の藤原忠清の娘です。そんなこともあり、どうやら義朝は父親に相当嫌われていたようで、義朝は若い頃に官位も与えられないまま坂東で暮らすことになるのです。

しかし義朝の偉いところは坂東で勢力を広げることになるのです。この頃に鎌倉に根を下ろしたと言われています。

ところが、次男の義賢は長男の義朝がいない間に東宮帯刀長という官位に就くことになるのです。明らかに義賢の方を優遇しているのです。父親の為義は義賢を嫡男にしようとしていたのでしょう。

源為義は次男義賢を坂東に送り義朝に対抗させる

ここで面白いのは、父親の為義が長男義朝の勢力拡大に危機感を持つことなのです。このため、次男義賢を坂東に送り、武蔵国の豪族秩父氏のもとに行き、その娘を妻とします。その頃木曽義仲が生まれることになるのです。

そして秩父氏の庇護のもと武蔵国比企郡に居を構えて義朝と対抗しようとします。このため何かと義朝派と義賢派に分かれて小競り合いがあったことでしょう。やがて、義朝は京へ戻り、代わりに義朝の長男である義平が鎌倉に住むようになります。

義仲の父義賢は義平に襲われて討ち死にします

そして致命的な事件が起こります。鎌倉に居た源義平は武蔵国比企郡に居た義賢を襲撃することになるのです。甥が叔父を襲撃するということになります。久寿2年(1155年)のことです。

このため、木曽義仲はまだ2歳で当時駒王丸と言われていましたが、木曽谷に逃げ込み、中原兼遠に育てられることになるのです。

こういう事情ですから木曽義仲にしてみれば自分の親を頼朝の父義朝と兄義平に殺されたということになります。従って、同じ源氏と言っても、従兄弟同士と言っても、全く信用できるわけでもありませんし、むしろ親の仇と考えるのが普通でしょう。

木曽義仲の挙兵から勢力拡大

中原兼遠は木曽地方に本拠を置く豪族で、木曽義仲を匿ったころは信濃権守という地位にありました。

兼遠の子供の樋口兼光、今井兼平は後に義仲の有力な家臣となっていきます。また、義仲の妻は兼遠の妹で、有名な巴御前は兼遠の娘ではないかと推測されています。

このように25年間にわたり義仲は木曽に留まることになりますが、転機は同じように治承4年(1180年)にやってきます。

以仁王の挙兵によって、全国の源氏の残存勢力の動きがでてきます。そのため、平家は源氏の残存勢力の追討を各地の豪族に命ずることになるのです。

木曽義仲は挙兵する

9月に信濃の豪族笠原平五頼直が木曽義仲追討のために木曽に侵攻します。これに対して信濃源氏の一族が戦うことになります。更にこれに木曽義仲が参戦し、笠原勢は越後に退却することになります。

翌年、越後の城資職が信濃に侵攻し、千曲川近辺に布陣します。これに対して、木曽、佐久の軍勢が対抗することになります。

この戦いでは木曽勢の大勝となり、そのまま越後に侵攻し勢力を広げていくのです。このようにして義仲は治承5年(1181年)には信濃、越後を勢力圏に収め北陸道に進出する勢いを見せることになります。頼朝の坂東における勢力と拮抗するまでに成長するのです。

木曽義仲は源頼朝と妥協し、嫡男義高を鎌倉へ

寿永2年(1183年)面倒なことが起こるのです。坂東で頼朝に敵対していた源氏の志田義広が頼朝に敗れて、木曽義仲を頼ってきます。

また、いつも問題となる源行家が墨俣川の戦いの後頼朝のもとに居ましたが、頼朝から追い出されたため義仲を頼ってくるのです。これでは頼朝の心証は良くありません。

また、義仲の勢力範囲も頼朝と境を接するまでとなり、幾つかの讒言もあったため両者の間は緊張状態となり、武力衝突の手前まで行くことになります。

しかしながら、ここは両者の和解が成立することになります。このため、義仲は息子の義高を事実上の人質として鎌倉に送ることになります。これが後の悲劇につながるのです。

木曽義仲と源頼朝との関係のまとめ

木曽義仲の生い立ちから源頼朝との関係を解説してきました。両者は同じ源氏を名乗っておりますが、立場が相当異なることがわかると思います。

両者ともに平家政権では報われないので、不満を持っていたでしょうが、頼朝は自分の親の義朝、兄の義平などを平家に討ち取られています。また、自身もあわや死罪となるところでした。そのため平家政権については相当根深いものがあったことでしょう。

木曽義仲は自分の親は頼朝の兄の義平に殺されていますし、自分自身も危うい目に遭っているのです。そんなことから頼朝に対しての敵対心は相当あったと思われます。

また、源氏の棟梁の地位ですが、これは頼朝はそう思っていただけで、義仲もほぼ同じ立場です。実力さえあればどちらにでも行くことになるのです。そんなことから、この後の両者の行動が決まってくるのです。

鎌倉殿の13人一覧はこちら

コメント

タイトルとURLをコピーしました