鎌倉殿の13人・第14回ネタバレ・木曽義仲の倶利伽羅峠の戦い

鎌倉殿の13人

寿永2年(1183年)5月に越中と加賀の間にある砺波山で繰り広げられた倶利伽羅峠の戦いは源平の戦いの中で最大のもので、平家はこれによって京を守るだけの兵を失ってしまうのです。

しかし、富士川の戦い、一の谷の戦い、壇ノ浦の戦いに比べて知名度がないのです。それは、勝者の木曽義仲、敗者の平維盛ともに後世に残らなかったからだとおもいます。それではこの戦いを解説していきます。

木曽義仲は信濃、越後を制圧する

治承5年(1181年)は平家の追討軍を千曲川で破った木曽義仲は逆に越後に攻め入り、信濃国、越後国を制圧するに至ります。北陸道を支配下におさめるように範囲を広げていくのです。

当時の北陸は京にとっての穀倉地帯です。西日本は養和の大飢饉のため、食料の確保がままならず、京ですら餓死者が出る状況だったのです。従って北陸道の確保が平家にとっては絶対事項だったのです。

寿永2年(1183年)平維盛を総大将として、10万と言われる大軍を率いて義仲を追討することになるのです。平維盛は平重盛の嫡男になります。治承4年(1180年)の富士川の戦いで大敗したときの総大将でもありました。

緒戦の火打城の戦いで平家が勝利をおさめる

4月27日に平家軍は北陸道の入り口とも言うべき火打城を攻めることになります。火打城は直接義仲の配下ではなく反平家勢力の豪族が守っていました。

火打城とは現在の福井県南越前町にある山城ですが、付近を流れている日野川を堰き止めて、周りを湖のようにして対抗したと言われています。平家方は、源氏方から内通者を得て、この湖を決壊させて城に討ち入ります。

平家側としては幸先の良い勝利となり、そのまま加賀国に進軍することになるのです。

般若野の戦いで平家は木曽義仲の軍勢と対峙

5月9日に平家軍は加賀を越えて越中に進出します。般若野の場所は現在の砺波市の東部になります。平家の先遣隊は平盛俊が指揮していましたが、般若野で休息していたところを、木曽義仲の先遣隊である今井兼平の軍に奇襲されます。

このため、平盛俊は加賀に退却することになるのです。

倶利伽羅峠の戦い

源義仲の本隊が到着して倶利伽羅峠に向かって進軍を始めます。加賀国で体制を立て直した平家軍も倶利伽羅峠に進軍し、ここに布陣をすることになるのです。

倶利伽羅峠の戦いの義仲の作戦

般若野の戦いは義仲の策略だったと言われています。平家本隊は7万と言われています。一方、義仲軍は3万ほどであったとされています。兵力の差は歴然で、平地で会戦すれば義仲軍が不利となります。

そのため、平家の大軍を山中に引き込み大軍の強みが出ないように仕組んだとされています。5月9日の般若野の戦いでは、平地に進出した平家軍を倶利伽羅峠の向こう側に追い出すことが目的だったとされています。

般若野に展開した義仲の軍勢は、平家が平地に降りてこないように間合いを図りつつ展開したようです。それを平家は勢力に恐れをなして攻めてこないと油断させていたのです。

実はもう一つの考え方もあったようで、義仲の計略で般若野に源氏の白旗を大量に集めて大軍を装い、容易に平地に出てこないように仕掛けたとも言われています。果たしてどちらだったのかは分かりませんが。

5月11日の夜間になると、義仲は樋口兼光の部隊を倶利伽羅峠に展開した平家の背後に回らせて退路を遮断します。そして、正面部隊の間合いを詰めていきます。

義仲が倶利伽羅峠に布陣した平家に夜襲

5月11日の深夜に正面から攻撃を開始します。驚いた平家は退却を始めますが、退路は樋口兼光の軍に抑えられてしまっています。

平家の本隊は大混乱に陥り、前進も後退もできず、空いた方向に殺到することになります。しかしその方向は地獄谷と言われる崖になるのです。

平家軍はこの谷に次々と落ちて全滅してしまいます。平維盛は命からがら脱出することになります。なんだか、蒙古軍の戦いのようですが、日本でもこんな戦い方があったのですね。

この戦いの中で、一部の資料では平家の軍勢を驚かすために火牛の計を使ったとも言われています。牛の角に松明を括り付けて平家軍に突入させたとも言われていますが、果たして、牛が松明をつけられて指示通り動いたかどうかは定かではありません。

しかし、倶利伽羅峠古戦場には火牛の像が置いてあって木曽義仲の作戦とされているそうです。

別動隊の志保山の戦い

倶利伽羅峠と分岐した平家の平忠度と平知度の軍勢は能登国と越中国の境の志保山に向かいます。これに対して源行家の軍勢と戦いになります。最初は平家の方が優勢に戦いを展開していきます。やはり源行家はどうも戦いには向いていないようですね。

しかしながら、倶利伽羅峠の戦いで勝利した木曽義仲の軍勢が駆け付け、たちまち平家は敗れてしまいます。この戦いにおいて平清盛の七男の平知度が戦死することになります。

木曽義仲の倶利伽羅峠の戦いのまとめ

木曽義仲の最大の戦いであった倶利伽羅峠の戦いについて説明しました。この戦いは、現在ではあまり目立ちませんが、平家の勢力を決定的にそいでしまったところにこの戦いの意義があったのです。

この戦いによって、平家は総勢10万という勢力を失ってしまい、もはや京へ逃げかえるしか方策がなかったのです。木曽義仲は逃げる平家を掃討して進むだけなのです。平家は京を防衛する能力もなくなってしまいます。木曽義仲を前にして都落ちするしか方法はなかったのです。

最初、坂東の頼朝は平家の大軍と木曽義仲がお互いに勢力を削ぐことを期待していたのですが、期待に反して木曽義仲に京への先陣を許すことになったのです。しかしながら、そこは源頼朝です。様々な外交戦術で出し抜かれた木曽義仲に対して、何とか、挽回することとなるのです。そこはまた別途。

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