鎌倉殿の13人の第23回は「狩りと獲物」です。どうやら今回は曽我兄弟の仇討事件が話題の中心になるようです。
詳細は既に前回のネタバレで紹介しましたが、これに関連して重大な事件が起こることになるのです。それは、源範頼がこの事件の結果として誅殺されることになるのです。
そんなことから源範頼について解説いたします。
源範頼の生い立ち
源範頼は久安6年(1150年)遠江国にある蒲御厨で生まれたと言われています。父は源義朝ですが、母は池田宿の遊女ということになっています。
遊女というとなんとなく遊び女のような感じですが、実際はこの地域の有力者の娘だったようです。平治の乱で義朝が亡くなった後は、蒲御厨で養われていました。
藤原範季が養父となって養っていたとも言われています。そのような事情から蒲冠者と言われていました。
正妻の由良御前の子供である頼朝、希義、常盤御前の子供である阿野全成、義円、義経とは異なる系統ですが、頼朝挙兵の早い段階から頼朝に従ってきました。
平家追討ではその頃頼朝の弟としては一番年長であったようで、頼朝の代理として出陣しています。範頼の戦い方はあくまでも正攻法ですし、頼朝の意をよく汲んで、御家人たちとも争うことなく全軍を統率していたようです。
このため、武功においては義経のような派手さはなく、地味ではあるものの忠実に頼朝の指示に従ったと考えられます。そんなことから、あの疑い深い頼朝も範頼についてはある程度の評価をしていたとみられています。
平家滅亡後も兄の頼朝の意を汲んで慎重に立ち回っていましたので、義経のような悲劇に見舞われることもなかったはずでした。
曽我兄弟の仇討事件がつまずきの始まりに
建久4年(1193年)5月曽我兄弟の仇討事件が起こります。曽我兄弟の仇討は父親の仇である工藤祐経を襲ったものですが、源頼朝が工藤祐経に伊東祐親、河津祐泰父子を襲わせた黒幕とも考えられていたのです。
もっとも頼朝にしてみれば自分の初子である千鶴丸を伊東祐親に殺されていますから、その理由もわかるのですが。
このため、曽我兄弟は工藤祐経だけではなく、源頼朝も襲撃したとも考えられています。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」この襲撃に北条時政の配下の者を使ってしまうように比企能員が仕掛けたという演出までついていました。
そんなことから、曽我兄弟の仇討事件が起こった時、一時、源頼朝も襲われたという風聞が伝わり、鎌倉で留守を預かる者たちを震撼させることになるのです。
その報に接した北条政子は悲嘆にくれるのですが、そのとき源範頼は、「後は自分が控えている。」という趣旨の発言をしたと言われています。
範頼にすれば、元気づけるために発した言葉でしょうが、頼朝がいなくなっても、自分がいるから大丈夫だと、あたかもその後を狙っているかのように邪推されたとされています。
この発言は北条政子の仕掛けとも考えられていますが。果たしてどうなのでしょうか。
ついに源範頼は誅殺されることに
この事件から2か月後の8月に源範頼は頼朝への忠誠を誓うために起請文を送ることになります。しかし、その文章の中で自分の名前を源姓で名乗ったため、頼朝の怒りを買うことになるのです。
このため、範頼は大変な狼狽の状況だったと言われています。
8月10日には範頼の部下である当麻太郎が頼朝の寝所に潜んでいたところを捕まってしまいます。当麻太郎の言い訳としては、主人の範頼が起請文の件で頼朝の怒りを買ったため嘆き悲しんでいるのを察して、事情を調べたものであるとしていました。
しかし、この件により範頼は追及されることになります。ついに8月17日には伊豆国修善寺に幽閉されることになってしまうのです。そして誅殺されたと言われています。
翌日には範頼の家人たちも討伐されてしまいます。こうして、何年間も慎重に行動してきた範頼ですが、ついに謀反の罪を着せられて排除されてしまうのです。
蒲冠者殿はもうすぐ退場ですね。
2代鎌倉殿の退場は秋頃でしょうか。
2人はともに修善寺に眠っています。(左上)源範頼の墓
(右上)範頼の幽閉地・信功院跡に立つ日枝神社
(左下)源頼家の墓
(右下)頼家の菩提を弔うため政子が建立した指月殿の阿弥陀如来坐像#鎌倉殿の13人#源範頼#源頼家 pic.twitter.com/Wi30IgQIN6— dylan-adachi,Inc 小林明 (@dylanadachi) June 10, 2022
源範頼誅殺は曽我事件のとばっちりのまとめ
このようにしてすべて慎重に振舞っていた源範頼も天寿を全うすることはできなかったのです。しかしながら、源義経のようにその後も生き残ったという伝説が何か所かにあらわれています。
1つは、越前まで落ち延びたという説。
2つ目は、武蔵国吉見の吉見観音に隠れ住んだとの説。
3つ目は、相模国の追浜に逃れたという説。
4つ目は、武蔵国足立郡石戸に逃れたという説。
5つ目は、伊予国に逃れたとして、範頼の墓所まで存在しています。
そんなことですから、せっかく自重してきた範頼の死を悲しむ人が多かったことでしょう。
結論から言えば、源範頼の謀反はなかったのではないでしょうか。
曽我兄弟の仇討事件のようにもしも頼朝が何らかの事故で亡くなってしまったときに、源頼家もまだ幼いわけですから、権力が弟の範頼に移ることを危険視した北条方の陰謀と考えるのが自然だと考えられるでしょう。
結果としてこれで義朝の息子は頼朝と阿野全成だけが生き残っていますが、阿野全成は北条政子の妹を妻としているのでとりあえず安全と考えたのでしょう。
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