「鎌倉殿の13人」において源頼朝は欠かせない存在です。源頼朝は最初の武家政権である鎌倉幕府を作った人として教科書には記載されています。その前に源頼朝は清和源氏の棟梁としての権威性はどのように持ったのでしょうか。また、頼朝以外にも義経などの武勇に優れた多くの兄弟とはどのように違っていたのかを解説します。
源氏の棟梁としての源頼朝の系統は
源頼朝は源義朝の三男として1147年(久安3年)に名古屋の熱田神宮の西側にあった神宮大宮司藤原末範(すえのり)の別邸で生まれています。藤原末範の位階は従四位下で立派な貴族で、その娘は由良御前と言われています。
父親の源義朝は清和天皇の孫が臣籍降下した源経基に繋がる清和源氏の家系になります。父親・義朝は河内源氏第5代棟梁の源為義の長男です。
このような家系ですので源氏の一族を従える十分な資格があったのです。頼朝はそれでも三男ですので上に二人いることになります。この二人はどうだったのでしょうか。
また、河内源氏は源氏の中でも有力な系統ですが、必ずしもこれだけでは源氏全体に号令をかけることはできません。やはりそれなりの実力、軍事力が必要なのです。
河内源氏は源頼義、義家の時代に大いに活躍したことから、有力な系統にのし上がってきたのです。
源頼朝と他の兄弟とはどのような違いがあるのか
父親の源義朝には当時の習慣として正室の由良御前の他に、側室として常盤御前、三浦義明娘、波多野義通妹、その他2名ほどいたようです。
長男義平の母は三浦義明娘と言われています。この人は母親の出自が低いため、朝朝、頼朝が官位をもらっても長男であるのにもかかわらず、官位を得ていないことから、長男と言っても庶子扱いされていたようです。
しかしながら、武勇に優れていて、平治の乱では平家相手に相当な奮戦をしていました。しかし、最後は捕らえられて処刑されています。
二男朝長の母は波多野義通の妹と言われています。義長も人はどうやら官位を得ていますので嫡子として認められていたようですが、由良御前の息子と比べると出世が遅れています。
平治の乱に敗れて義朝と東国に逃れる際に、負傷し、父に殺害してもらったといわれています。
六男範頼の母は遠江海国池田宿の遊女とされています。遊女と言っても土地の有力者の娘だったようです。貴族である藤原範季にかくまわれて育つことになります。
正室の由良御前の子供たち
三男頼朝は平治の乱に参加しますがまだ12歳のことです。平治の乱に敗れた後、近江国で捕らえられて六波羅に送られます。
四男義門も母は由良御前とみられています。平治の乱の際に任官しましたが、乱の中で戦死したようです。もっとも10歳ぐらいですからどの様であったか記録が残っていません。
五男希義も母は由良御前です。平治の乱ののち母方の伯父の藤原範忠によって朝廷に差し出されますが、土佐に配流されます。
坊門姫の母は正室の由良御前です。平治の乱の後は都で後藤実基に預けられ育てられました。
側室の常盤御前の子供たち
七男全成の母は常盤御前です。物語的には平治の乱敗戦後の逃亡の際に母親とともに捕らえられたと言われています。その後醍醐寺で出家させられています。
八男義円の母も常盤御前です。園城寺で出家させられています。
九男義経の母も常盤御前です。この人は有名ですよね。鞍馬寺に預けられます。
同じ御前が就くので間違いやすいのですが、常盤御前についてはその出自がはっきりしていないのです。その後ろ盾もありませんので、やはり貴族の娘とは言えなかったのではないでしょうか。
この通り常盤御前の息子たちは例外なく寺院に預けられているのです。正室由良御前の息子は配流されていますので、どちらが厳しいのかよくわかりませんが、やはり区別があるのです。
私が考えるに、このようにみていくとはっきりしてきますよね。基本的に正室の由良御前から生まれた男子である、三男頼朝、四男義門、五男希義が河内源氏の正当な系統として認められています。
それに準じるのが二男の朝長です。朝長は平治の乱で亡くなってしまいますので。問題なく嫡男は頼朝となるのです。ただし、これも一つの基準であって、全員が亡くなってしまえば常盤御前の息子でも実力があれば頼朝に替わることができるのです。
源頼朝は兄弟たちをどう見ていたか
この時代、父を同じにしてもこれだけの兄弟がいることになります。しかし、常識的に考えるとこれらの兄弟をすべて同じと考えるのは無理があったのでしょう。
頼朝から言えば、同じ母の由良御前から生まれた、四男義門、五男希義については、兄弟だと認めていますが、常盤御前から生まれた七男全成、八男義円、九男義経は家来とまではいかないでしょうが、兄弟とは違う思いがあるでしょう。
現代に照らしてもそう思うのが自然ではないでしょうか。例えば、渋沢栄一も多くの子供がいましたが、正妻の子と庶子とは若干の待遇の違いはありました。
源頼朝の旗揚げの知らせを聞いて兄弟だと思って駆け付けたのでしょうが、頼朝自身は少し距離を置いてみていたのではないでしょうか。
その後、義経が鎌倉側の許可もなく官位を得たりして様々なトラブルを起こすことがありますが。そのような目で見れば、納得ができると思います。
源頼朝が源氏の棟梁と言われる理由と他の兄弟との違いのまとめ
鎌倉幕府のことを考えるときに源頼朝がいったいどんな人だったのかを考えなければならないので、その母の出自を調べてみました。また、その兄弟とその母を調べてみるとすっきりわかることがあります。
今と違って当時は出自がやはり大切でしたので、貴族に連なる由良御前から生まれた3人が源氏の棟梁になる資格があるのです。
実際、源氏と言っても清和源氏から別れた系統が日本全国に散らばっているので、権威だけでは全国の武士に指示することができません。やはりそのためには武力の裏付けも必要なのです。
更に、朝廷に対しても存在を認めてもらう必要がありますので、なおさらでしょう。