工藤祐経(すけつね)と伊東祐親とはどんな関係があるのか

鎌倉殿の13人

鎌倉殿の13人の第一話で坪倉由幸さんが演じるみすぼらしい姿をした工藤祐経(すけつね)が登場しました。この人は何者か分かりますか?伊豆の大豪族になっている伊東祐親(すけちか)に何かと要求していましたね。彼らの間にはどのようないきさつがあったのでしょうか。実はこれがその後の大事件に発展することになるのです。

工藤祐経と伊東祐親の祖父にあたる工藤祐隆から問題が発生します

工藤祐隆(すけたか)工藤家の6代目にあたり、伊東、宇佐美を中心とした所領河津を中心とした所領を持つなど大きな勢力をふるっていた人でした。伊東氏の祖先とも言われています。

この工藤祐隆の嫡子である工藤祐家(すけいえ)が早世してしまいます。このため祐隆は後妻の連れ子を工藤祐継(すけつぐ)として養子とします。

そして、工藤祐継に伊東荘、宇佐美荘を相続させ、亡き伊東祐家の嫡子伊東祐親(すけちか)には河津荘を与えてしまうのです。祐隆にとっては本流の孫よりも連れ子の方が可愛かったのでしょう。

祐親としては面白くないでしょう。自分は孫とはいえ嫡子の嫡子、いわゆる保守本流なのですから、自分が本領の伊東荘、宇佐美荘を継ぐべきだと思っていたのだと思います。何の血のつながりもない連れ子が本領を乗っ取ってしまったと考えているのです。

しかし家長の決定ですから従うしかありません。

もう一つややこしいことが起こるのです。伊東荘、宇佐美荘を与えられた工藤祐継は早世することになります。そしてその嫡男が工藤祐経です。これが第1話に出てきたみすぼらしい人です。

工藤祐経にしてみれば、父の所領を引き継いだだけですから当然自分のものだと思っているのです。工藤祐経と伊東祐親はこのように祖父の世代から見れば同世代の人なのです。義理関係も含めれば従兄弟の関係になります。

関係を書き表せばこのようになります。これを見れば伊東祐親の主張もまんざら理解できないわけではありません。

工藤祐隆---工藤祐家(嫡子)---伊東祐親(嫡子)

---工藤祐継(連れ子)---工藤祐経(嫡子)

伊東祐親は工藤祐経の所領を奪うことになります

工藤祐経の父祐継が亡くなった時、祐継の遺言で伊東祐親が後見人になってしまいます。父工藤祐継も何の心配もしていなかったのでしょうか。

伊東祐親が所領のことで恨みに思っていることぐらい想像できたはずですが。ここでも考えが足りないのじゃないかと思うのです。

工藤祐経は伊東祐親の娘を娶ります

工藤祐経は伊東祐親の娘万劫御前を娶ります。形の上では美しい展開ですね。伊東祐親にしてみればこれでも十分だと思うのです。将来は自分の孫が相続すればよいのですから。

工藤祐経は伊東祐親に伴われ平重盛に仕えます

伊東祐親は工藤祐経を伴って平重盛に仕えることになります。そして京で工藤祐経が数年間過ごしている間に、伊東荘、宇佐美荘の所領を奪ってしまうのです。

更に悲惨なのは妻の万劫御前を土肥遠平に嫁がせてしまいます。これでは救われるすべがないので、ここまでやらなくても良かったと考えるのですが、いかがでしょうか。

伊東祐親はここまで考えて、工藤祐経を京に連れて行ったのでしょうか。だとしたら相当の悪ですよね。

工藤祐経は京で訴訟を繰り返しますが、すべて握りつぶされてしまったようです。そんな状況下での「鎌倉殿13人」第一話の登場だったのです。

それでも、河津荘の主人ですから、あそこまでボロボロの格好でいたわけではないと思いますが。

工藤祐経は伊東祐親、河津祐泰を襲撃します

1176年(安元2年)10月、工藤祐経はついに恨みを晴らすために行動を起こします。伊東祐親とその嫡男の河津祐泰が狩りから帰るときに、部下に襲撃させるのです。祐親は難を逃れますが、河津祐泰は射殺されてしまいます。

所領と妻を奪ったことがこのような結果をもたらしたのです。祐経はどこかへ身を隠したことでしょう。京に逃れたとも言われています。

源頼朝の挙兵によって事態は変転を遂げます

1180年(治承4年)8月源頼朝が挙兵します。初戦の石橋山の戦いでは伊東祐親は平家側として源頼朝を打ち破りますが、頼朝は2か月後には再起して武蔵、相模国を押さえるようになります。

10月には頼朝は富士川の戦いで平家を破り、伊東祐親は頼朝に捕らえられてしまいます。そして助命を潔しとせず自害してしまいます。

一方逃れていた工藤祐経は弟の宇佐美祐茂が挙兵当初から従っていたこともあり、頼朝に仕えることになります。そして、伊東荘を安堵されることになるのです。

こうして工藤祐経の悲願は達成されたのですが、その後も復讐の連鎖が続くことになるのです。工藤祐経を巡る所領についてのいざこざの説明はとりあえずここで留めておきます。これ以降の説明は、また、時代が進んでからの方が適切でしょう。

工藤祐経のエピソード

工藤祐経は京で平重盛に仕えていたころは、歌舞音曲に通じた人として知られていたようです。そのためこのようなエピソードも残しております。

1184年(元暦元年)4月の一の谷の戦いで平重衡が捕虜となります。平重衡が鎌倉に護送されたときに、重衡を慰める宴席で鼓を打って今様を謡ったとされています。工藤祐経は平重盛に仕えていましたので、重衡のことは知っていたようです。

また、1186年(文治2年)4月に源義経の愛妾であった静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞ったときに、鼓を打ったという記録もあるそうです。

武芸の方はあまり大した記録は残っていませんが、京での経験を生かして頼朝に重用されたようです。

工藤祐経(すけつね)と伊東祐親とはどんな関係のまとめ

工藤祐経の所領に関する紛争を取り上げてみました。もとはと言えば、御祖父さんの工藤祐隆がもめ事の発端だったのですが、頼朝挙兵のおかげで、所領を取り戻すことができたのでした。

しかし、その後の工藤祐経の評判はあまりよくないようです。源頼朝に重用されていることを理由にかなり横暴な行動をとっていたようです。

また、彼が指図して射殺した河津祐泰の件で一波乱が起こることになりますが、それはずっと後のことです。

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