鎌倉殿の13人・第8回ネタバレ・鎌倉が源氏ゆかりの地の理由は?

鎌倉殿の13人

源頼朝は挙兵後、安房に逃げ込み、上総広常、千葉常胤の加勢を得て、再び勢いを取り戻すというよりは大勢力となり、鎌倉を目指して進軍することになります。

ところでなぜ鎌倉なのでしょう。父の源義朝が住んでいたことが理由としていますが、一体どのような関係があるのでしょうか。

源義朝は坂東に住むことになったいきさつ

源義朝は1123年(保安4年)源為義の長男として生まれます。母は白河院近臣の藤原忠清の娘と言われています。しかしながら、長男ではあっても為義からは嫡男とみなされていなかったような様子があるのです。

兄弟の母の系統を見ていくとその様子がわかります。義朝には同母の兄弟がいなく二男義賢、三男義弘は六条大夫重俊娘を母としています。四男頼賢、五男頼仲、六男為宗は源基実の娘、七男為成は賀茂成宗の娘、八男為朝、九男為仲は江口の遊女、鳥居禅尼、十男行家は不詳となっています。

1139年(保延5年)二男の義賢が東宮帯刀に任じられても、長男の義朝は無位無官のままというのは変な感じがします。

母の後ろ盾が為朝と対立関係になったのか、没落したのか、それとも義朝自身に為朝とうまくいかない面があったのかもしれません。

義朝は若くして安房国にあった現在南房総市丸本郷の丸御厨(まるのみくりや)を管理するために京から安房国に移り住んだようです。為義から体よく追い出されたのかもしれません。

その後、上総、下総、安房の豪族とも交流を持ち、最終的には大勢力の上総氏の下で暮らしています。

そんなことから自分の勢力を伸ばそうと画策したのでしょう。

千葉氏と下総国守との相馬御厨の係争事件に介入したり、大庭氏が管理する大庭御厨に侵入したり、坂東での勢力拡大を図っていたのでしょう。

また、自身の姻戚関係として、相模国の豪族三浦義明の娘からは長男義平波多野義通の娘からは二男朝長が生まれるなど、姻戚関係を結んでいるのです。

また、坂東の下野国の源義国とも良好な関係を維持するよう努力をし続けていました。

源義朝は鎌倉に居を移す

それまで義朝は現在の神奈川県逗子市に位置する沼間に住んでいましたが、鎌倉の亀ヶ谷に館を移すことになります。現在の寿福寺のあたりと言われています。

鎌倉に居を定めたのは初代河内源氏源頼義

ここに居を定めたのが河内源氏の初代と言われている源頼義(988~1075)です。頼義は父の頼信とともに武勇の誉れが高かったのです。

1028年に安房、上総、下総で起こった平忠常の乱を父とともに討伐に出かけ、それまで何度も失敗したものを、たちまちのうちに収めたと言われています。

しかし、なかなか官位昇進は進まず、やっと1036年に頼義は相模国の受領に任じられます。

頼義の相模国在任中に桓武平氏で平将門を滅ぼした平貞守の嫡流である平直方から、娘とともに鎌倉の所領、邸宅、それまでの郎党を譲られることになります。

それ以来、鎌倉は源氏の東国における拠点となったのです。また、血筋が良かったせいか、妻の平直方の娘からは、義家、義綱、義光と跡継ぎに恵まれているのです。

その後、頼義は陸奥守になり前九年の役で活躍するなど、東国における地位を確立していくのです。また、その子の八幡太郎義家の奥州での活躍は目を見張るものがあるでしょう。

これによって、河内源氏は武門の世界で地位を高めることになったのです。

その後の義朝と鎌倉との関係

源義朝は長男の義平に坂東のことを任せて京に進出します。そして熱田大宮司藤原末範の娘を正室とします。このことから院の勢力に近づくことになります。

1147年(久安3年)には三男にあたる頼朝が生まれこれを嫡子としているのです。

そして1153年(仁平3年)に従五位下下野守に任じられることになります。翌年の右馬助になります。

これは父の為義をしのぐ昇進ですが、本来は為義は喜ぶべきことなのでしょうが、なぜか敵対行動に出るのです。

そんなことから、最初に描いていたように、為義にとっては義朝は長男ではありますが、もはや自分の親族とはみなしていないことがわかります。

為義はこともあろうにこんなこともしているのです。二男の義賢を上野国の多胡に派遣し、武蔵国の秩父氏の娘をめとり、武蔵国比企郡大蔵に居を構えて、義朝に対抗しようとしたのです。

そして、義朝の長男の義平は1155年(久寿2年)叔父にあたる義賢を大蔵の居城に襲いこれを討ち取ってしまうのです。

このように、坂東の支配をめぐっては、義朝は父為義と決定的に対立していたのです。そんな事情がありますから、保元の乱で天皇方と上皇側に別れて戦ったとしても、何も驚くことはないのです。

また、余談ながら、この討ち取られた義賢の二男が後の木曽義仲になるわけです。そんなことですから、同じ源氏と言っても義朝の家系は義仲にとっては親の仇にもなるのですから、後の対立も何ら不思議ではないのです。

鎌倉が源氏ゆかりの地の理由のまとめ

源頼朝が鎌倉を目指して進軍することから、鎌倉とはどのような関係があったのかを調べてみました。一般には父の義朝が住んでいたと言われていましたが、遡れば、河内源氏初代の源頼義に鎌倉のルーツがあったのです。

それにしても、頼朝の父の義朝と祖父の為義との間には相当険悪な関係があったことに改めて驚かされます。義朝の弟の義賢と義朝の長男の義平の争いは、坂東での勢力争いということであっても、現在の我々とはかなり考え方が違うようです。

昔から、源氏には内紛がつきものと言われていますが、難しいものですね。

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