平家物語にはいくつかの有名な場面があります。平家の都落ちはその中でも一つの重要場面です。
ここに登場するのは平忠盛の末子で、清盛の弟になる平忠度ですが、一般的には薩摩守忠度として有名です。この人は武芸にも秀でていますし、歌人としても有名な人でした。そんなことから逸話が残されているのです。
平家の都落ちの背景
1183年(寿永2年)平家はその前の倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に打ち破られほとんどの勢力を失ってしまいます。
木曽義仲は次第に京に迫り、比叡山との協力関係を取り付けることに成功します。平家が長い間、仏教勢力に対して、強気の態度で対していたのが裏目に出るようになるのです。
当初は京の各入口で防衛するつもりでしたが、義仲軍の数万に対して平家の軍勢は高々数千ですので、これで京を防衛するのは不可能という状態になったのです。
このため、後白河上皇、安徳天皇とともに京を移す手段に出ますが、6月25日後白河法皇が平家方から脱出してしまいます。後白河法皇もなかなかのやり手のようです。
これによって、政権全体を西に移す構想が崩れ、安徳天皇を奉じて平家一門が都落ちすることになるのです。
ここの点が平家の戦略上の大失敗と言えるところでしょう。当時は院政が中心でしたので、上皇と天皇がセットでいる必要があったのです。むしろ上皇の方が役割が大きかったのです。
このため、上皇が源氏のもとで新たに天皇を決めることができ、平家は賊軍となってしまうのです。せっかく安徳天皇と三種の神器を確保していても無駄なことになってしまいます。
薩摩守忠度の都落ち
この時、薩摩守忠度は一旦京を後にしますが、配下の者数名とともに京に戻ることになります。行先は忠度が日頃から歌について師事している藤原俊成の邸です。
忠度は門の前で名乗りを上げますが、俊成の家の者は平家の落ち武者であるとして、怖がって門を開けようとしません。やっとのことで、主人の俊成が聞き及び、忠度ならばと門を開きます。
そして俊成に告げるのです。自分が俊成について歌を修養してきたが、そのうち自分の自信作として百首を巻物に記載しています。
その後世の中が平和になり、勅撰集が撰せられた場合には、この中から取り上げてくれるように俊成に頼んだのです。俊成はその申し出を受け取ったとのことです。
やがて、1188年(文治4年)千載和歌集が選集されたとき、俊成は忠盛の巻物のなかから1首を取り入れることにしました。しかしまだ平家が朝敵であったことから、作者を「読み人知らず」としたそうです。
さざなみや滋賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな
薩摩守忠度とはどんな人だったか
正しくは「平忠度(たいらのただのり)」ですが、一般には薩摩守忠度と呼ばれています。
この人は、平忠盛の六男として1144年(天養元年)に藤原為忠の娘を母として生まれています。兄の清盛が1118年生まれですから、26歳の年の開きがありますので、兄弟というよりは子供のような感じですよね。
武芸に秀でていることと、怪力の持ち主であったようです。そして和歌の造形も深いまさに文武両道の人であったようです。
平忠度の最期
1184年(元暦元年)一の谷の戦いで平家の軍勢は源義経の鵯越えの逆落としの奇襲によってが混乱の中で敗れてしまうのですが、平忠度は百騎ほどで、源氏の軍勢の中を紛れて逃走しようとしていました。
ところが武蔵国の住人岡部六弥太忠純が怪しみ追いかけてきました。そして声をかけると、忠度が「味方だ」と答えたのですが、その時お歯黒をしていたのが見つかってしまったのです。
源氏の軍勢でお歯黒などというものをしている者はいないため、平家の大将とみて組もうとし始めます。
忠度は岡部を掴んで刀で刺そうとしますが、鎧に阻まれてうまくいかず、三太刀目で浅手ではあるが傷を負わせます。そして、首を掻こうとしますが、その時駆け付けた源氏の手の者に腕を斬られてしまいます。
こうなっては、忠度は覚悟を決めて、最後の念仏を十回唱えさせろと言って念仏を唱え始めます。しかしながら、岡部は功を焦ったのでしょう。念仏を唱え終わる前に、忠度の首を取ってしまいました。
しかしながら岡部は討ち取った相手が誰なのかはわかりません。箙に入っていた文をみると次のような歌が詠まれていました。
行き暮れて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし 忠度
これによって岡部は討った相手が、薩摩守忠度だということがわかったということです。
平家物語アニメ第八話薩摩守忠度の都落ちとその最後のまとめ
平家物語の中で、歌人として有名な平忠度について解説してきました。滅びゆく平家の中でいろどりのある逸話を残しています。
それにしても、一の谷の戦いで平家の一門であると見破られたのがお歯黒とは、なかなか興味のある話です。平家の都落ちから数か月が経過しています。
戦場にあっても平家の一門はまだお歯黒を付ける習慣を身に着けていたのですね。奥ゆかしいと言えば奥ゆかしいですが、源氏の者と比べると大きな違いを感じます。
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