鎌倉殿の13人で源義朝、常盤御前の息子である、今若こと阿野全成、牛若こと源義経が登場してきました。これを機会に幼名今若、乙若、牛若こと、後の阿野全成、源義円、源義経のこれまでと今後をまとめておきます。
今若こと阿野全成は
阿野全成は1153年(仁平3年)に京で生まれました。平治の乱で源義朝が敗れた後、平家側に捕らえられ、1160年(平治2年)醍醐寺に預けられます。僅か7歳の頃でしょう。
阿野全成の頼朝との対面
1160年の以仁王の令旨が発せられたことを知って、兄の源頼朝に会うために寺を抜け出て、東国に向かいます。
ところが相模国に着いたときには、肝心の頼朝が石橋山の戦いで大敗した直後ですからとても会えるどころではありません。
どういう偶然か知りませんが、頼朝挙兵のときに参加した佐々木兄弟と出会ったおかげで、しばらくは匿ってもらっていたようです。そして、頼朝が再起した10月1日に下総国で兄弟の名乗りを挙げました。
阿野全成のその後
武蔵国長尾寺を与えられ、北条政子の妹の阿波局と結婚することになります。政子の次男千幡の乳母父ともなって、頼朝からはずいぶん重用されることになります。
ドラマにおいては暦とか占いに通じながらもコミカルな役割を演じていますね。実像は醍醐禅師又は悪禅師と言われていますので、若い時は相当の荒くれものだったようです。
頼朝に会った後は逆らわず従っていたようで、弟の義経のように頼朝に睨まれることはなかったようです。それでも、頼朝が亡くなった後は、北条氏の権力闘争に巻き込まれてしまいます。
阿野全成と言われていますが、この由来は、駿河国阿野荘を領有していたことによると言われています。阿野は後になってからの名前でしょう。
乙若こと源義円は
源義円は1155年(久寿2年)の生まれです。兄の阿野全成の2歳年下になります。平治の乱の後は同じように園城寺に預けられますが、頼朝挙兵の翌年に叔父の源行家が尾張で挙兵すると園城寺を抜け出して参加しています。
しかし、1181年3月10日平維盛、重衡の追討軍と墨俣川をはさんで対峙した墨俣川の戦いで、尾張川に布陣した源氏の軍勢が奇襲をかけたところ、平家側に見破られ大敗することになります。この戦いの中で義円は戦死することになるのです。
従って、兄の全成、弟の義経と異なって源頼朝とは面会することなく亡くなったと言われています。享年26歳でした。
牛若こと源義経は
牛若こと源義経は1159年(平治元年)の生まれですから、平家に捕らえられたのは高々2歳ですから、そんなころの状況は覚えていないでしょう。やはり鞍馬寺に預けられることになります。
源義経の頼朝との対面
1174年(承安4年)に鞍馬寺を抜け出しています。やっと15歳の頃ですね。ここで、奥州の藤原秀衡のもとに行くことになるのです。この理由ははっきりとしていません。
一番有力な説は、奥州平泉氏の権威付けです。奥州藤原氏は藤原氏を称していてもやはり中央とは相当隔たりがあるようです。
庶子と言っても義経は清和天皇から清和源氏の系統になりますので、藤原氏にとっては絶好の権威付けになるはずです。そして義経を保護しておいてやがて藤原氏の一族に取り込むところまでは考えていたのだと思われます。
藤原秀衡にとっては2つの誤算があったのでした。
1つ目は源頼朝の挙兵です。これによって、義経を手元において育てようという目論見が外れてしまいます。頼朝の下に駆けつけてしまえば、もはや源氏の一員になってしまうため、藤原氏の元には戻らなくなってしまいます。
彼の政権構想から抜けてしまうことになるのです。下手をすれば敵側になることだってありうるわけです。そんなことから秀衡は渋っていたのだと思います。
2つ目は義経が天才的戦術家ということです。これはうれしい誤算になるはずです。血筋だけを期待していたのが、とんでもない才能を持ち合わせていたのですから。
藤原秀衡としては残念ですが、義経に何人かの部下を与えて鎌倉に送り出すのです。さすがに大物ですね。
富士川の戦いの後、義経は源頼朝と静岡県の黄瀬川の陣で対面することになります。それ以降の活躍は皆さんの承知するところですので、解説は別の機会とします。
源義経のキャラクターは
源義経は天才的戦術家として知られています。あえてその行動を見ていくと戦略家とは言えない部分があるので、あえて戦術家というわけです。
その戦いはかなりの部分、奇襲を使っています。しかも義経自ら先頭に立って戦う形式ですので、率先垂範と言えば聞こえが良いのですが、やはり戦術の段階でとどまるのではないでしょうか。
一の谷の戦い、屋島の戦いでも、正面側からではなく、少数で予想しないところから攻めるやり方ですから。
また、戦いの仕方も自由な発想と言えば聞こえは良いのですが、結果重視という考え方のようです。壇ノ浦の戦いでもそれまでタブーだった水主、舵取りを狙って攻撃するなどという発想は初めて義経が採用したものです。
しかし、このような戦いに勝利すればよいという考えは、常識人の梶原景時などからは不愉快に見えたのではないでしょうか。また、一の谷の戦い、屋島の戦いでも、三種の神器を取り戻すという戦略的な目的についても無頓着だったような気がします。
頼朝の弟阿野全成、源義経登場のまとめ
源頼朝の弟たちが次々と登場するようになり、登場人物が揃ってきました。頼朝の弟の中では、源義経が抜群の知名度で、次に範頼ぐらいしか知られていませんね。
阿野全成に至っては、鎌倉殿の13人に興味を持って初めて知るようになりました。
常盤御前の息子の阿野全成と源義経は同じ母から生まれても、ほぼ真逆の人生を歩むことになります。阿野全成は本当は荒くれだったようですが、目立たぬように頼朝に従います。ドラマの中では少しコミカルなキャラクターになっていますね。
源義経は正に天真爛漫ということで、最初に野武士を倒したときは唖然としましたが、こんなキャラクターで描かれていけば、その後の人生も解説しやすい設定だったと思います。
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