鎌倉殿の13人・第10回ネタバレ・常陸国佐竹義政、秀義との闘い

鎌倉殿の13人

富士川の戦いで平家の源氏追討軍を追い払った源頼朝はそのまま京に進軍することを命じます。しかし、坂東の豪族たちは食糧不足、所領の維持に不安があることから拒否します。最大の脅威は常陸国を支配している佐竹氏です。この佐竹氏はどのような家柄か、また、頼朝がどのように排除していったかを解説します。

常陸国佐竹氏とはどんな家系

佐竹氏は実は清和源氏で頼朝と同じ河内源氏の系統から派生した一族なのです。河内源氏の源頼義(前九年の役で陸奥守として活躍した人です)の息子の義光から分かれた家柄なのです。

義光の孫の昌義が常陸国久慈郡佐竹郷に住み着いて佐竹を称していました。主には常陸国北部を勢力範囲としていましたが、しばしば南部に進出して、上総氏と争いになっていたのです。

当時の上総広常とほぼ同等の勢力を有していたと考えられています。当主は昌義でしたが、源氏であるものの、頼朝の挙兵には呼応しませんでした。その当時の昌義は京にあって、領地には長男の義政と三男の秀義が留守を預かる形となっていました。

源頼朝が上洛をあきらめた理由

源頼朝は挙兵の中心者と言っても直接の勢力を持っているわけではありません。頼朝にとっては平家政権を崩壊させたいと考えていましたが、それに従う坂東の豪族とは考え方が違うのです。

坂東の豪族にとっては自分の領地経営が一番の課題です。領地を脅かされることなく経営できる保証を与えてくれるなら誰にでも従ってよいのです。

この考え方を頼朝が受け入れたおかげで、後の領地安堵を与えることになるのです。

最大勢力の上総広常ですら、北方の佐竹氏とはたえず細かい争いを繰り返しています。そのため、京にまで進軍して領地をがら空きにするわけにはいかないのです。ドラマの中では北条時政が皆の代弁者として頼朝に訴えていましたね。

しかもこの頃から養和の大飢饉が始まります。全体にコメが不作の中、膨大な糧秣を調達して長期の戦いをしにくくなってきていたのです。

一説によればこの大飢饉は当時の人口約600万人の内4万人以上が餓死したと言われています。被害は西日本でひどかったため、平家のダメージが大きかったと言われています。

源頼朝の常陸国佐竹氏征伐

1180年(治承4年)10月27日、頼朝は常陸の佐竹氏を征伐するために出発します。富士川の戦いから一週間後ですから忙しいですよね。

この日は頼朝にとっては忌み嫌うべき日ですから、また、阿野全成が登場して面白いことをいうのではないでしょうか。前回は頼朝に家族不和と不慮の死をやんわりと告げましたが今回はどうなることやら。

源頼朝は常陸国国父に到着し上総広常に謀略を命じる

11月4日には常陸国府、今でいうと石岡市になりますが、に到着します。そこで、上総広常に謀略を申し付けるのです。上総広常と佐竹氏を呼び出しますが、それに応じた佐竹義政を討ち取ってしまいます。応じなかった佐竹秀義は金砂城に籠っていまいます。

源頼朝は佐竹秀義の金砂城(かなさじょう)を攻める

金砂城は茨城県太田市にある400mほどの西金砂山にある山城です。山頂付近には断崖絶壁があり難攻不落の城となっていました。

翌11月5日に総攻撃を開始しますがなかなか落ちるものではありません。そこで金砂城の佐竹軍に参加していない秀義の叔父の佐竹義季を味方につけて、城の構造、状況を把握します。そしてその案内によって金砂城を攻略することに成功します。

敗れた秀義は奥州に逃亡することになります。

金砂城攻略に功があった佐竹義季は頼朝の御家人になります。しかし佐竹秀義の所領は御家人たちに分け与えられました。

常陸国で勢力をふるっていた佐竹氏の一族を加えることで、逃れた秀義の抑えにもなることで、常陸からの脅威は排除されることになったのです。

常陸国佐竹義政、秀義との闘いのまとめ

坂東の脅威であった常陸国佐竹氏を排除した源頼朝は鎌倉に入って本格的に政を開始することになります。安房国に脱出した時に約束したとおり和田義盛を侍所の別当にするなど、本格的な体制づくりがが進んでいきます。

なお、花園城(現在の北茨城市)に逃げた佐竹秀義ですが、その後も抵抗運動を続けていましたが、たいした脅威になりませんでした。

しかし、その後平家が滅び頼朝が奥州藤原氏を攻めるときに、佐竹秀義は頼朝に帰順することになります。佐竹氏も源氏の一族ですので、白旗を掲げていましたが、その時、頼朝から旗の上に扇をつけるように命じられたとのことです。佐竹氏の家紋「五本骨扇に月丸」はそれに由来しているとのことです。

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