北条時政は源頼朝が伊豆に配流されたときにその監視役であったととされています。北条は平氏の一家人でもありますので、当然平家のはずです。
それが、現代のように好きだから一緒になるという簡単なものではない世の中で、しかも平氏政権の世の中でなぜ北条時政は源頼朝を婿にすることとなったのかを解き明かしたいと思います。
北条時政、北条家ははどんな生まれなのか
北条氏は古くは桓武平氏から別れたと称されていますが、実際はよくわからないと言われています。
今の静岡県伊豆の国市を拠点としている豪族ではありますが、他の豪族と比べても相当規模が小さいのです。
一説には全体で30騎しかいなかったと言われていますから、その他の豪族と比べても1/10以下というのが実情です。
例えば同時期に平家側として勢力があった伊東祐親などは現在の伊東市を中心として、部下も北条氏の10倍ほどはあったと推測されます。
このため、伊東祐親は平清盛からも信任を受けていますので、地方豪族と言っても立派なものなのです。しかも家系もはっきりわかっています。
また、北条時政は伊東祐親の娘を最初に正室として迎えているくらいです。
こんなことですから、北条時政は伊豆の国市においてもある程度の勢力を占めていたもののの、さほど有力な豪族とは言えなかったようです。
しかしながら、京には何らかのつてがあったようで、時々出かけておりますし、後に義経追放の際に、京に入り、京都の守護をした時の手腕は高く評価されていますから、武辺の方はともかく、京での行政能力、統治の仕方についてはかなり力量があったようです。
また、北条時政の烏帽子親は源義朝第一の家臣と言われ、義朝が暗殺された際も同じように付き添って殺された鎌田正清と言われています。そうなると、北条家は平家の家門に属するとはいえ、源氏とも何らかの繋がりがあったようです。
源頼朝と北条政子が結婚するに至った経緯は
源頼朝は伊豆に配流されますが、最初から現在頼朝が住んだとされている伊豆の国市にある蛭ヶ小島には居なかったような気がします。
源頼朝は最初は伊東祐親の監視下で伊東荘に居たのでは
北条政子と結婚に至る前に、伊東祐親が京に大番で行っている隙に、伊東祐親の娘である八重姫と関係をもって、子まで設けています。
平家にしても配流した時の監視役としては、信頼おける豪族に頼むはずですから、最初から北条時政ではなかったのではないでしょうか。
伊東祐親は国に帰ってこのことに激怒して、八重姫が産んだ三歳になった子を殺して、八重姫を他家に嫁がせています。自分の孫まで殺してと現代では思うでしょうが、親平家の立場としては当然のことでしょう。
源頼朝は八重姫の件で伊東祐親から命を狙われる
そして、この原因を作った、頼朝を殺害しようともしております。平家にしてみればこれで殺してくれれば厄介払いができるわけです。この時殺していれば時代は大きく変わったでしょうに。
こんなことがあり、伊豆山神社に逃げ込んだ頼朝を救ったのは、北条時政だったと考えれば辻褄が合うのではないでしょうか。
もっとも、源頼朝はこの当時のプレイボーイですから、京でやっているように、評判の女性がいればアプローチすることを当然のように伊豆でもやっただけだと思っていたと思います。
更には、北条政子と二股かけていたとも言われていますので、この筋書き通りだったかは定かではないようです。
北条時政は嫌々ながらも源頼朝と政子の結婚を認めることに
何れにしろ、大豪族であり平家に対して立場もある伊東家としては、我慢ができなくても、それよりはるかに小さな豪族であり、平家への忠誠心もまあまあという感じの北条家のほうが、少々のことも眼をつぶれるのかもしれませんし、自由に考えられたのかもしれません。
大豪族とは違うのであまり失うものもありませんしね。
北条時政も平家の世の中ですから、当初は反対で、政子を別のところに嫁がせようとしたのですが、政子はそこを逃げ出したそうですから、その決断力と情熱は、後世での彼女を予見するようなものですね。
かくして、時政としてはいやいやながら、源頼朝を婿にしたと考えてよいのでしょう。いくら源氏の棟梁、高貴な出自と言ってもその当時の状況では先が見えませんからね。
一説によれば、北条時政が大番で京に出かけたときに、平家の衰退が近いのではないかと感覚を持ったので、先行投資として頼朝を婿にしたという説もあるようですが、ここまではもち上げすぎなのではないでしょうか。
北条時政はなぜ源頼朝を婿にしたのかのまとめ
北条時政は源頼朝を婿にしたところから、北条家の運命が大きく広がってきます。当初は誰も想定していなかったことでしょう。
いくら高貴な生まれで、源氏の棟梁と目されていても、平家の世の中では犯罪人ですから、これを婿にしても基本的にメリットがありません。
一族のことを考えれば、それなりに親平家の誰かに嫁がせて、何らかのメリットを享受するというのが自然でしょう。
でも、北条家は小豪族ですし、それほど有力なところに嫁がせることもできなかったのでしょう。そうなると、政子も一途ですから、仕方がないと思ったのではないでしょうか。
バックに多くの家来を抱える大豪族の伊東家であればそんなことを面子をかけてもできない状態だったでしょうが、それよりはるかに小さな豪族であれば案外可能だったのかもしれません。
少なくとも結婚することで失うものはないのですから。
伊豆における、豪族の勢力を考えたときにこのような考えに至りました。また、あまり言われていないことですが、北条時政の烏帽子親が源義朝第一の家来というのもなんかの縁があったのでしょう。