鎌倉殿の13人・第19回ネタバレ・源義経の妻は何人いた?

鎌倉殿の13人

平家との闘いが終わりを告げて、源頼朝と義経の関係がいよいよ悪化してきました。

鎌倉まで平宗盛を護送してきた義経ですが、ついに鎌倉に入ることを許されず、後白河法皇を頼って生きるしかなくなります。この機会に義経を支えた妻、愛妾について解説します。

正妻である郷御前

ドラマの中では「里」としてなし崩し的に比企一族から嫁になったように描かれていますが、実際は少し違っています。

郷御前仁安3年(1168年)に武蔵国の豪族河越重頼の娘とし産まれています。母は源頼朝の乳母として名高い比企尼の次女で河越尼と言われている人です。

河越氏は武蔵国の最大勢力ですし、河越尼は頼朝の嫡男頼家の乳母になる人ですので、最大級の名家と言ってよいでしょう。

元暦元年(1184年)頼朝の命によりこの縁組は決められたことから、少なくとも、この時までは頼朝は義経を評価していたことがわかります。郷御前は9月に義経のいる京に上ることになるのです。

頼朝と義経の対立が表面化

郷御前が義経のもとに嫁いだ翌年、壇ノ浦で平家は滅びることになるのです。この頃が多分一番幸せな頃だったのかもしれません。やがて頼朝と義経の対立が表面化してくるのです。

鎌倉入りが拒絶され、義経は頼朝との関係を断つことになるのです。決定的だったのは、10月に頼朝が土佐坊昌俊を差し向け、義経討伐を図ることになるのです。

これによって義経は後白河法皇に源頼朝追討の院宣を出すように迫り、これを実行します。逆に頼朝は義経討伐のため京に出陣することになります。

手勢をほとんど持っていない義経は京を脱出し、九州を目指しますが、暴風雨のため失敗し、吉野に隠れることになるのです。

郷御前の出産と河越一族の悲劇

郷御前は義経の子を宿しておりましたが、翌年の文治2年(1186年)京の近郊に身を隠してそこで女子を産むことになります。この時、義経の母の常盤御前が保護をしたとも言われていますが、真偽のほどはわかりません。

気の毒なのは河越一族です。父の河越重頼と弟の重房は義経に連なっているということで頼朝に誅殺され、更には所領まで没収されてしまいます。頼朝の仲介で義経と縁組をしたにもかかわらず、あっさりと処分されてしまいます。河越一族にとっては踏んだり蹴ったりでした。

郷御前は義経とともに奥州へ

義経は郷御前と子供を連れて奥州に逃れることになるのです。我々の印象では義経と弁慶の二人連れだと思っていたのですが、奥州行は数10人単位の移動だったのですね。

奥州には翌年の文治3年(1187年)に到着したと言われています。これでしばらくは安らかな日々を過ごせたことでしょう。

源義経というと静御前という決まりでしたが、静御前とは吉野で別れていますので、子供が生まれたことを考えても、正妻の郷御前を大切にしていたのがわかります。

源義経の最期

しかし、幸せな日々は2年ほどしか続きませんでした。文治5年(1189年)閏4月、藤原泰衡は衣川の源義経を襲撃することになります。義経はこれまでと、郷御前と子供を殺害した後に自害してしまいます。郷御前はまだ22歳でした。

白拍子の名手としての静御前

源義経と言えば静御前というように最も有名な愛妾です。静御前は白拍子として活躍しており、今日での白拍子の元締めとなっていた礒禅師の娘です。その娘ですから美貌も舞も受け継いだのでしょう。

源義経とは平家を滅ぼして京に凱旋したころに知り合ったようです。何しろ義経は当時のスーパーヒーローですのであちこちから宴席があったことでしょう。静御前も親方礒禅師の娘として売り出し中ですから、仲が良くなるのは自然の流れです。

しかし源頼朝と義経が決定的に対立したため、最初は義経に従い吉野まで同行するのですが、やがて義経と別れることになります。義経が付けた護衛にも裏切られ、山中をさまよっているところを鎌倉方に捕らえられてしまいます。

そして、静御前は母親の礒禅師とともに鎌倉に送られます。最大の見せ場は静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞う場面でしょう。この舞は鬼神をも泣かせるほどの名演だったと言われています。

そして、もう一つの悲劇は静御前が子供を身ごもっていたことです。生まれた子供が女なら生かせ、男なら殺されることになってしまうのです。その後の展開はどのようなものかは詳しくはこのサイトの次の記事をご覧ください。

鎌倉殿の13人・第17回ネタバレ・静御前登場、ヒロインの人生は | 歴ドラサイト by tensuisen

平時忠の娘である蕨姫

蕨姫は平時忠の娘です。平時忠は平清盛の妻の二位尼と言われる平時子の弟になります。

平家一門ではありますが、堂上平氏と言われる貴族でいわば文官の身分です。また、この人が有名な「平家に非ずんば人に非ず。」と言ったことで有名です。

時忠は壇ノ浦の戦いまで平家として行動を共にしますが、戦いの中で源義経に捕らえられ、京に送られることになります。その間に義経と関係を持つために自分の娘を義経に娶わせたと言われています。やがて時忠は能登国に配流となります。

義経と頼朝との対決がはっきりした後の消息は不明です。一説では京で暮らしたと言われています。

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源義経の妻は何人いたのかのまとめ

源義経の妻、愛妾についてまとめてみました。源義経というと静御前が通り相場ですが、実際のところは最後まで一緒だったのは正妻の郷御前であったことが改めて新しい気づきとなりました。

郷御前も義経と頼朝との対決に伴い、父弟を殺され、最後は自害に追い込まれる悲劇となってしまったのがなんとも悲しい結末です。

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