頼朝挙兵の報を受けて征討軍を東国に派遣した平家でしたが、富士川で大敗、また、木曽、甲斐、近江などの源氏の勢力が挙兵、寺社も不穏な動きを見せます。
危機を感じた清盛は福原から京に還都し反逆に出ます。ここで活躍するのが清盛の五男の平重衡です。
平重衡の出自は
平重衡は平清盛の五男として1157年(保元2年)に生まれます。母は平時子で、後に二位の尼と言われる方です。貴族化した平家の中にあって武勇が優れた人物として評価されています。
また、なかなかの教養の持ち主でもあり容姿も優れていたとのことです。もっとも貴族化していたのは清盛の孫の世代で子供の世代はそれなりの戦いも経験していました。
平重衡が指揮した南都焼討(治承4年12月)
平清盛は以仁王の乱のときに以仁王をかくまった園城寺と、その逃亡先になる予定であった興福寺を攻撃しようとします。
その時のことだけではなく一貫して南都の寺院が平家に対して反抗的だったのでしょうが。その任に当たったのが平重衡でした。
これは平家の悪業の最たるものとして記録されているので、重衡にとっては気の毒な事件ともいえます。
治承4年(1180年)12月11日にまず以仁王を匿った園城寺を襲撃し、寺を焼き払います。
12月25日には大軍を率いて南都を攻めます。総大将は重衡、副将は教盛の嫡男通盛でした。27日南都の入り口で南都側の抵抗に会いますが、翌日には南都に侵入します。そして戦いになります。
周りの建物に火をつけるのは当時の戦い方としては常識的なものでしたが、当日の強風にあおられて大火災になってしまいました。
このため南都の主要部分は焼き払われてしまいますし、東大寺、興福寺はほとんどの建物が消失してしまいます。東大寺の大仏も頭部と手が焼け落ちるというありさまでした。
翌治承5年(1181年)平清盛は東大寺と興福寺の荘園、所領を没収して、別当らを更迭してしまいます。
ところが、正月14日に高倉上皇が崩御します。更には清盛自身も閏2月4日高熱に苦しみながら亡くなってしまいます。これらの寺院への仕打ちに対する仏罰と言われています。
また、この南都焼討を行った平重衡は南都側から深く恨まれることになり、彼の処分につながることになるのです。本人の本意ではなかったものの気の毒なことになるのです。
平重衡が源行家、義円を破った墨俣川の戦い(治承5年3月)
各地の源氏の反乱の中では、近江源氏、美濃源氏などが同時に起こっていましたが、これらを平家は制圧することになります。
源行家は尾張で反乱を起こし、そこに、源頼朝の弟で、常盤御前から生まれた乙若こと源義円が参加することになります。
源義円は幼いころは乙若と言って、常盤御前に連れられて逃亡していましたが、平家側につかまり、命を助ける代わりに園城寺に預けられたものです。
頼朝の挙兵を知り、寺を抜け出すことになるのです。鎌倉殿の13人の第10回で鮮やかに登場した人物です。武芸にも秀で兵法にも通じているという役割になっています。
平家の方は平重衡と富士川の戦いで大敗を喫した平維盛が当たることになります。
3月10日両軍は今の長良川にあたりますが、墨俣川をはさんで西側に平家、東側に源氏という形で対峙します。
源氏は夜間の奇襲を行うため、上流を渡河して西側に渡りますが、これを平家側に見破られて大敗することになります。これによって源氏は尾張国での勢力を維持できず、三河まで退却することになるわけです。
そしてこの戦いの中で、源義円は討ち取られてしまうのです。わずか25歳の生涯でした。
富士川の戦い以来何かと不穏な状況が続く中、一門の棟梁である平清盛が亡くなるという大変な混乱の中にあって、一時的ではありましたが、平家の衰退を食い止めた、平重衡の働きには着目するものがあるのです。
そして、治承5年(1181年)から寿永2年(1183年)5月の倶利伽羅峠の戦いまでは、平家にとってしばしの平安が訪れたことでしょう。
平清盛の逆襲を支えた平重衡のまとめ
平重衡はこのように戦ってきましたが、平家の凋落は救えなかったのです。寿永2年(1183年)5月の倶利伽羅峠の戦いで平家は大敗し、主要な勢力を失ってしまいます。
比叡山も木曽義仲に加勢したため、もはや京を持ちこたえることはできませんでした。このようにして、重衡も他の一門と同様に都落ちすることになるのです。
それでも平重衡は都落ち後も10月の備中国・水島の戦い、11月の室山の戦いで源氏の軍を退け、木曽義仲と源義経の戦いの間に、福原まで勢力を拡大することができるようになります。
しかしながら寿永3年(1184年)2月の一の谷の戦いによってふたたび平家は敗退を重ねることになります。平重衡はこの時馬を射られて捕らえられてしまいます。
その後、京にしばらく留めおかれ、鎌倉に護送され、平家が壇ノ浦で滅びるまで鎌倉に滞在します。その教養と態度が立派なため、源頼朝も助命を考えたほどでした。
妻の政子は重衡のために侍女の千手の前を差し出して慰めているのです。しかしながら、南都焼討の総大将ということで南都の宗門からの引き渡し要求が厳しく、ついに、南都に護送されることになります。
重衡の妻は壇ノ浦で入水しますが、助けられて京の日野に住んでいました。南都までの道のりで重衡の希望により妻の輔子と再会することがかないます。その後木津川の畔にて斬首されてしまいます。
妻の輔子は遺体と首を引き取り、日野に墓を建てます。そして輔子は大原に隠棲した建礼門院に仕えました。また、千手の前は重衡を思慕し3年後には亡くなってしまいます。
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